山岡鉄舟が教示する武士道/武道感 vol.2
※旧タイトル:「あんぱん」と「味付け海苔」vol.2
明治維新以降の山岡鉄舟の活躍を表す言葉の一つに「苦心」があります。
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徳川家が静岡藩に国替えとなり、多くの幕臣は職を失います。静岡藩権大参事となった鉄舟は、赤貧を洗うがごとき生活に陥った旧幕臣たちに寄り添い、親身のなって彼らの嘆きや苦しみを聞いて回り、また救うべく「苦心」するのです。
中條金之助はじめ精鋭隊の仲間による静岡の牧之原台地のお茶事業もその一つです。その後も廃藩置県、廃刀令で失業して収入を失った武士たちの救済と、鉄舟の「苦心」は続いていきます。
また「書」の達人でもあった鉄舟は、生涯100万枚を超える「書」を書いたと云われます。ここにも失業武士の救済の側面がありました。貧乏な鉄舟は、お金の代わりに「書」を書いて渡し、武士たちは、これを売って飢えを凌いだのです。
末端の現場で苦心する山岡鉄舟に、いぶし銀の輝きを放つ真の武士道を感じてしまうのは私だけでしょうか。
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明治5年、37歳となった鉄舟は、西郷どんたっての依頼で若き明治天皇の教育係として10年間、侍従することになりました。そして20代の明治天皇は、山岡鉄舟が修行を通じて「剣禅一如」を極めていく姿を身近に目撃していくこととなります。
後に日清、日露戦争を乗り越えていく名君・明治天皇が若き日、円熟期を迎えて武道を極め大悟していく鉄舟の姿に感化されるのは想像に難くないことです。
鉄舟は、宮中での仕事が終わると帰って剣術稽古。食後は座禅を組み、深夜2時前に寝ることはありません。廃藩置県、廃刀令によって、木戸孝允はじめ多くのサムライたちが剣を置き、剣術の鍛錬を止めていく中、鉄舟は「鬼鉄」の激しさそのまま剣術修行を怠りませんでした。
また1と6のつく休日は、欠かさず静岡の三島にある龍沢寺の星定和尚に参禅しました。
その距離、フルマラソン3倍の120キロ!
途中に天下の鹼「箱根」もあり、実質、松山から高松くらいの距離でしょうか。武道を極めるため週一回ペースで片道120キロを通い続けるのですから、マラソン選手も驚く健脚です。
そして数年後、ついに鉄舟は龍沢寺からの帰路で富士山を見た瞬間、大悟するのです。
『 晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は かはらざりけり 』
その後も鉄舟は、天龍寺の滴水和尚、円覚寺の洪川和尚によって悟りに磨きをかけます。
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こうして明治十三年三月三十日、滴水和尚から印可を受け「剣禅一如」を極めた鉄舟は、「今度こそ」と、いまだ勝つことのできなかった浅利又七郎に試合を申し込みます。
浅利又七郎は、鉄舟と向かい合った刹那、
「おいっ、鉄! ちょ、ちょっと待て。タイムだ、タイム」
と、いきなり試合を止めます。
そして鉄舟を見つめ
「お前、何か悟ったな…。よくぞ、ここまで極めた」と感涙。鉄舟は一刀流13代の正統を継ぐことになりました。
この時、鉄舟45歳、時すでに明治13年となっていました。
鉄舟は、28歳から17年間の修行を経て、ついに浅利又七郎という壁を乗り越えたのでした。
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また、天皇に侍従していた間も鉄舟の失業武士救済の「苦心」は続きました。
同門の木村安兵衛が二度にわたるお店の火事を乗り越えて開発した「あんぱん」のヘソに「八重桜の花びらの塩漬け」を乗せるアイデアを考えて明治天皇にあんぱんを献上。あんぱんブームを起こして失業武士たちに「パン屋」を手ほどきしました。余談ですが、木村屋のアンパン宣伝の市中音楽隊に「ちんどん屋」と命名したのも鉄舟です。
http://www.kimuraya-sohonten.co.jp/
他にも剣術仲間で山本海苔店の2代目・山本徳治郎と一緒に「味付け海苔」を考案し、同じく天皇に献納します。
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最後、山岡鉄舟は、胃がんで53歳でなくなるのですが、終焉は壮絶というべきか、恐ろしい程に見事でした。
当時は痛み止めもなく激痛であるにも関わらず、鉄舟は穏やかで安らかで、そして毅然として…
自ら死期を悟ると、真っ白の着物に着替えて袈裟をかけ
皇居に向かって結跏趺坐(けっかふざ:坐禅)して南無阿弥陀仏を称えつつ、
妻子、親類、友人や門弟たちに笑顔を見せながら穏やかに逝ったのです。
以下、勝海舟の話です。
「山岡死亡の際は、おれもちょっと見に行った。明治二十一年七月十九日のこととて、非常に暑かった。
おれが山岡の玄関まで行くと、息子が見えたから「おやじはどうか」というと、
「いま死ぬるというております」と答えるから、おれがすぐ入ると、大勢人も集まっている。
その真ん中に鉄舟が例の坐禅をなして、真っ白の着物に袈裟をかけて、神色自若と坐している。
おれは座敷に立ちながら、「どうです。先生、ご臨終ですか」と問うや、
鉄舟少しく目を開いて、にっこりとして、
「さてさて、先生よくお出でくださった。ただいまが涅槃の境に進むところでござる」と、
なんの苦もなく答えた。それでおれも言葉を返して、
「よろしくご成仏あられよ」とて、その場を去った。
少しく所用あってのち帰宅すると、家内の話に
「山岡さんが死になさったとのご報知でござる」と言うので、
「はあ、そうか」と別に驚くこともないから聞き流しておいた。
その後、聞くところによると、おれが山岡に別れを告げて出ると死んだのだそうだ。そして鉄舟は死ぬ日よりはるか前に自分の死期を予期して、間違わなかったそうだ。
なお、また臨終には、白扇を手にして、南無阿弥陀仏を称えつつ、妻子、親類、満場に笑顔を見せて、妙然として現世の最後を遂げられたそうだ。絶命してなお、正座をなし、びくとも動かなかったそうだ。
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明治天皇は、鉄舟に惜別の言葉を下賜しました。
『 山岡は、よく生きた 』
時は流れて明治中期。
東京の子供たちの間で、こんな蹴鞠歌が流行りました。
『 下駄はビッコで 着物はボロで 心錦の山岡鉄舟 』
思わず私は、目が潤んでしまいました。
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まだまだ山岡鉄舟のエピソードを上げたらキリがありません。
正拳コラムでは、鉄舟エピソードの一端をご紹介しただけですが、
興味を持たれた方には私が先輩から勧められた本を紹介します。
<オススメ著書>
「命もいらず名もいらず」上・下 山本兼一著
「剣禅話」山岡鉄舟
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※阿部正人「鉄舟随感録」は、鉄舟を利用して著者が自分の武士道論を展開してると批判があります。
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道場生はじめ皆様には、まずは小説「命もいらず名もいらず」をお勧めします。
小説とはいえ、構成は淡々とエピソード(事実)を羅列したり組み合せた内容で非常に読みやすくなっております。江戸末期~明治という時代背景からくる文化や価値観の違いもあり、遊郭通いの部分など、おいおいと思いますが(苦笑)、武道を修める私たちには大変勉強になります。
また、読み終わりましたら、ぜひ稽古の後など気軽に私(高見彰)に感想やご意見などお聞かせください。私自身の感想は、次回コラムで述べさせていただきます。
- 2014-06-01 Sun | URL | 正拳コラム | Edit | ▲PAGE TOP
山岡鉄舟が教示する武士道/武道感 vol.1
※旧タイトル:「あんぱん」と「味付け海苔」vol.1
前々回コラムで北条時宗に「莫妄想」を伝授した無学祖元(むがくそげん)が、兵士に刀で殺されそうになった時に詠んだ歌があります。
「臨刃偈 ( りんじんげ )」
乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし
喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もまた空なることを
珍重す、大元三尺の剣 電光、影裏に春風を斬らん
※意味
稲妻が春風を斬れないように、お前は私の体を斬っても魂まで斬ることは出来ないよ。
死を恐れず平然と歌を詠む無学祖元に、兵士は退散します。
今回の正拳コラムは、この歌に倣い「春風館道場」を開いた幕末~明治の「剣」「禅」「書」の達人、山岡鉄舟の「武」をご紹介します。
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実は、この正拳コラムで先人たちの「武」をご紹介していることを知った先輩より、武道を志す方々にとって山岡鉄舟の「武」が大変勉強になるから取り上げてはどうかとアドバイスを頂きました。
それで調べたのですが、当コラムでも紹介した江戸時代の初めに柳生但馬守と沢庵禅師が提唱した「剣禅一如」の集大成として、江戸時代最後に出てきたラストサムライというべきか、いや、それ以上の本当に規格外の大人物、巨匠でした。
鉄舟は、明治維新の志士たちの名声の陰に隠れて地味ですが、調べる程に今も多くの鉄舟ファンがいることに頷けました。そして恥ずかしながら私自身、如何にテレビ化、映画化された人気のある有名人物ばかりに興味が向いてたことを気付かされました。
先輩の云われる通り山岡鉄舟を知ることで、日々の稽古への向かい方から武道に対する考え方、取り組み方、しいては現代社会における武道の在り方など、大変、勉強になりました。
今回は、ちょっと時間を掛けた3部構成の長編にして、1~2部で山岡鉄舟のエピソードを紹介し、3部目に私が山岡鉄舟の「武」から学んだことを述べさせて頂きます。
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山岡鉄舟といえば、ご存知の通り江戸城無血開城のエピソードが有名です。
徳川慶喜の命を受け、江戸に向かってくる官軍の真っただ中を
「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る!」と、
真正面から突っ切り、西郷隆盛に直談判して戦を回避します。
そして江戸城無血開城により江戸を戦禍から救うも、その功を勝海舟に譲り、
西郷どんをして
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。
此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
と言わしめた、リアル‘矛を止めた’「武」の巨人です。
前置きが長くなりましたが、山岡鉄舟は、どうやって「武」を極めたのでしょうか?
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剣豪、塚原卜伝を先祖に持つ鉄舟は、9歳から剣術を志して新陰流を学び、千葉周作から北辰一刀流を、山岡静山から忍心流槍術も学びます。
この鉄舟を象徴する若き日の‘あだ名’が二つあります/
それは「ボロ鉄」と「鬼鉄」。
「ボロ鉄」とは、貧乏でいつもボロボロの服を着ていたために付いたあだ名です。
月に7日は食事にありつけず、家の中は擦り切れた畳二枚の寝床兼居間と、畳一枚の書斎の合計三畳。妻には布団代わりに自分の服を与えて、本人は褌一丁で夜を過ごし
「まぁ、寒稽古に比べたらたいしたことない」
「人間、食べなくてもなかなか死なぬものだな」と、言い出す始末。
後に徳川慶喜の命を受けて西郷隆盛に会いに行くことが決まった時も、生活のために刀を売り払った後で、大慌てで親友の関口艮輔に大小を借りたほどの貧乏です。
「刀は武士の魂!」と、うそぶくサムライが鉄舟を見たら、唖然とするかも知れません。
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もうひとつの「鬼鉄」とは、激しい稽古で恐れられた‘あだ名’です。
内憂外患に対処するため幕府が設置した武芸訓練機関「講武所」に強者たちが集結する中、
狂気とまで揶揄された鬼気迫る稽古をする鉄舟は、まわりから「鬼鉄」と恐れられました。
ところが自他ともに最強と言わしめた鉄舟が28歳の時、転機が訪れます。
夜遊び後、ほろ酔い気分で道を歩いていた鉄舟は、突然、肩のぶつかった相手に襲われ、不覚にも首に刀を突きつけられるのです。
「おい、お前、鬼鉄だな! こんな老いぼれ武士に不覚をとるなんて、
噂と違って大したことないな。今回だけは勘弁してやるわい、笑!」
後に、この武士が、中西派一刀流の剣豪・浅利又七郎だとわかり、
改めて試合を申し込むのですが、何度やっても勝てません。
毎回、浅利の剣気に押されてジリジリと後ずさりして羽目板まで追い詰められ、さらに道場の外まで押し出されて、扉をパシッと閉められて終わりです。
寝ても覚めても目の前に立ちはだかる浅利又七郎という壁。
苦しむ鉄舟は高橋泥舟から、これは剣術の技量ではなく「心」に差があるのでは?とのアドバイスを受け、以前から取り組んでいた「禅」にますます傾倒していき、禅修行で深夜二時前に寝ることは無かったといいます。
その後、鉄舟は、西郷隆盛との交渉で官軍と幕府の戦を回避して江戸城無血開城を成功させたり、
上野彰義隊の説得や徳川家の静岡への国替え、失業武士対策に苦心するのですが、その間も弛むことなく剣術修行を継続するのです。
- 2014-05-04 Sun | URL | 正拳コラム | Edit | ▲PAGE TOP
日本の歴史と伝統に誇りを持とう!
今回は、お口直しで少々「武」を離れた`正拳コラム'です。
3月24日、急な用件で東京に出張しました。翌日、松山に戻る飛行機まで時間があったので、郷田道場時代にお世話になった先輩に連絡を取ってお昼休みをご一緒して数年ぶりに旧交を温めることが出来ました。そして、先輩から考古学の先生(考古調査士)を紹介して頂き、お話する機会を得ました。
そこで考古学の先生から教えて頂いたのが、
歴史の教科書で、四大文明の発祥とか、
中国四千年(前は三千年)の歴史と云うけど、
古代日本の縄文時代・弥生時代の方が16,400年前からと圧倒的に古く、
・火焔土器(かえんどき)
・ヒスイ製の勾玉(まがたま)
・土偶(どぐう)
などの出土品から、かなり高度な文明が存在していたことが明らかで、
これらの出土品は日本のみで、朝鮮半島や中国には見当たらないそうです。
そして以前、ルーブル美術館や大英博物館で「火焔土器」を展示したら大盛況、
火焔土器の芸術性にヨーロッパの考古学者たちは「信じられない」と、仰け反っていたそうです。
これには私も驚きました!
日本には、中国4000年の4倍以上の古い16,400年の歴史があり、
なんと当時の日本の女の子たちは、ヒスイ製の勾玉ネックレスでオシャレしていたと…?!
また先生方は「日本の凄さや素晴らしさを一番理解していないのが日本人」と、苦笑いしてました。
お釈迦様の2,600年前、イエス・キリストが生まれた2,000年前がつい最近と思える程の、遥か彼方の16,400年前から始まる古代日本の縄文・弥生の文化!
「ヒスイ製の勾玉」や「土偶」、「火焔土器」は、世界中が驚き羨望しているのだそうです。
少々、話が飛びますが、私がアメリカに留学していた時、西洋文化がベースのグローバルスタンダードな世界で、日本が勝っていくのは大変厳しいと感じていました。ところが日本の歴史や伝統文化など「和風」を前面に出すと、皆、感動して喜んでくれるのです。当然、「空手道」も然りです。
先生方の古代日本のお話に、何故か私がアメリカ留学中に感じたことがオーバーラップし、私たち日本人は、もっともっと日本の歴史や伝統・文化に誇りと自信を持って、世界の方々と接していかなければいけないと実感しました。
今後、東京オリンピック開催に向かって来日する外国人が増えたり、また道場生も海外に行く機会があるなど、ますますグローバル化が進んでいきます。
このような中、私たち日本武道「空手道」の修行している高見空手一門は、本物のリアル日本武道、クールジャパンの担い手として、自信と誇りを以て海外の方々に接して行動しようではありませんか!
「 日本16,400年の歴史。クールジャパン高見空手 押忍! 」
高見 彰
- 2014-04-11 Fri | URL | 正拳コラム | Edit | ▲PAGE TOP
武道を教える/武道を学ぶ
武道の習得、武道教育とは何か。
これを考える上で大変参考になる書籍があります。
それはオイゲン・ヘリゲル著「弓と禅」です。
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この本を簡単に紹介すると、大正時代に東北帝国大学の要請で哲学の教鞭をとるために来日した、ドイツの哲学者ヘリゲルの弓道修行奮闘記です。
ヘリゲルは、せっかく来日したのだから日本文化の神髄に触れようと、妻に生け花を習わせ、自身は弓道をマスターしようと知人の紹介で、大射道教の阿波研造に入門しました。
阿波研造は「弓聖」と称えられた武人で、殆ど目を閉じた状態の「心眼」で的を射ぬく達人です。
また禅にも精通し、自身が到達した境地を「一射絶命」と述べています。
この達人の元に、理論的な思考が発達しているドイツ人で、更にカント哲学の学者が入門したから、もう大変です。
阿波研造の
「的を狙うな」
「弓は腕力でなく心で引け」
「矢を自らの意志で放すな。‘それ’が放すまで待て」
との指導に
ヘリゲルは、
「的を狙わずに、どうやって的を射るのだ???」
「腕の力を使わずにどうやって弓が引けるか???」
「‘それ’って誰??? 矢は自分の意志で放つものでは?」
と、大混乱します。
これが日本人なら理解できないまま、わからんがそういうものなのかと、
矛盾を抱えたまま修行を続けてしまいがちですが…
相手は青い目をした異国の理論思考バリバリの哲学者です。
何とかヘリゲルに弓の神髄を伝授しようと苦悩する阿波研造。
理論からしか理解できず「以心伝心」「不立文字」のわからないヘリゲル。
修行が行き詰まって限界に達し、弓道をマスターすることを諦めたヘリゲルに
阿波研造は、最後、真夜中の道場に来るよう伝えます。
漆黒の闇の中、阿波研造は第一の矢弓を放ち、バシッと音がします。見事に的を射ぬきました。
第二の矢を放つと…、なんと後ろから第一の矢を真っ二つに引き裂いて的の中心を射ぬいたのです。
目前で阿波研造の神業を見たヘリゲルは、弓道の稽古を続けることを決意して修行に邁進し、帰国までに五段を取得します。
こうしてヘルゲルは、理論では説明できない武道の奥深さに感銘を受け、自分が長年学んできたカント哲学を棄ててしまったそうです。帰国後、ヘルゲルは、ナチスの戦争に巻き込まれて不遇な晩年を過ごすのですが、その彼を支えたのは哲学でなく武士の教科書「葉隠」でした。
また、ヘリゲルが自身の弓道修行を記した体験記「弓と禅」は、ヨーロッパで大ベストセラーとなって日本にも逆上陸。今でも販売しており、アマゾンでも購入可能です。
少々、前置きが長くなりましたが…、
武道を習得するということは、このように言葉や理論理屈で説明できない「不立文字」の部分の修得が出てきます。
最初は、子供たちの「空手教室」や、初心者の「カルチャースクール」的な段階もありますが、修行・鍛錬・年季が進み、奥深く進むに従って「不立文字」的な要素、「以心伝心」でしか教えられないことが多くなってきます。
これは、「道」のつくものの修行の全てに言えることではないでしょうか。
武道を始めとして「道」のつく稽古ごとは、
試合などの経験を積まないと体得できないこと、
年季や修行が進んだ分だけしか体得できないこと、
苦労しないと価値が分からず受け取れないこと、
徒弟制度の人間関係でしか伝えることが難しいこと、
など、様々あるかと思います。
ここに私は「武道教育」の難しさと素晴らしさ感じております。
是非、みなさまもオイゲン・ヘリゲル著「弓と禅」を読まれて、
「武道を学ぶとは如何なることか」
「武道を教えることは如何なることか」
一度じっくり考えて頂けたらと思います。
「一撃絶命」 押忍!
高見 彰
━━━━━━━━━━━━━ おまけコラム ━━━━━━━━━━━━━
正拳コラムでは、このような「書籍レビュー」もいいですね!
私は、アメリカの大山泰彦師範の元に空手留学している時、
「彰!お前、修行として本をいっぱい読め!人生、限られた時間での経験・体験は限度はあるが、読書で様々な‘模擬体験’ができるぞ。これから読書を習慣にして、様々な分野の本を多読・乱読するように!」
と、ご指導を受けました。
そして泰彦師範に日報とともに、「毎日、読んだ分だけの読書感想文」を提出することとなり、コメントを頂きました。
時に褒められ、時に2階の師範室に呼び出されて、直立不動もしくは正座で長時間のお説教を受たこともございます。当時は大変な修行時代でしたが、今にして思えば大変ありがたく、かけがいのない貴重な体験でした。
有り難うございました、押忍!
このアメリカ留学以来、私は読書を心掛け、最近はiPhoneを使って電子書籍も読んでおります。
それで、このオイゲン・ヘリゲル著「弓と禅」を紹介して下さった東京の先輩に、今回の正拳コラムの文章校正のお願いがてら、感想を聞いたところ、
「優秀な先生は技術を教える。達人は‘生き様’を背中で語る!」
と、切り返されました。
むむむむむっ…!
禅問答か、当意即妙の応酬話法か、如何にして先輩に切り返してやろうと思ったら
先輩の方から「えらい先生から聞いた受け売りだけどねw」と、自爆していました(笑)
そして私は、「‘生き様’を背中で語る!」の言葉に、
大山倍達総裁をはじめとする先生・先輩諸兄、
高見空手の総師であり父でもある高見成昭、
高見空手の先生方の姿が想い浮かびました。
高見空手も私も、この先達の「生き様」の上に成り立っております。
「‘生き様’で感化する」
この無言の「不立文字」「教外別伝」こそ、私が目指すべき「武道教育」と思いました。
まだまだ修行中の身ですが、いつの日か私も‘生き様’で門下生を感化する達人の域に達すべく、これからも空手道に邁進したいと改めて決意した次第です。
押忍!
- 2014-03-12 Wed | URL | 正拳コラム | Edit | ▲PAGE TOP
莫煩悩(まくぼんのう)
さすがに10日置きの「正拳コラム」ですと、私の勉強が追い付かずペース配分を考えようと思いますが、受験シーズンの今、このコラムだけは早目に読んで頂きたく投稿します。
今回は、北条時宗の「武」のお話です。
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元寇で有名な北条時宗は、18歳で鎌倉幕府の第八代執権となりました。
実は時宗、幼い頃より武芸が大の苦手で、今でいう「草食系」男子でした。
お父さんの時頼は、「これで武士の棟梁になれるのだろうか?」と、軟弱な息子の行く末を憂い、友人の蘭渓道隆に頼んで禅で鍛えようとします。そして道隆が亡くなったあとは無学祖元(むがくそげん)に弟子入りしました。
時宗「僕みたいな軟弱な者が武士の棟梁になれるのでしょうか?」
祖元「では、その軟弱な自分を棄てなさい」
時宗「僕は武芸が苦手で…」
祖元「では、その苦手な自分を棄てなさい」
時宗「僕は学校でイジメられてばかりの弱虫で…」
祖元「では、その弱虫な自分を棄てなさい」
時宗「僕は勉強が苦手で成績も悪く…」
祖元「では、勉強が苦手な自分を棄てなさい」
…
時宗の心に生じる様々な憂いや迷いを次々と捨てさせる無学祖元。こうして禅で心と魂を鍛えられ‘正念継続’の境地を修得した北条時宗は、鎌倉幕府の第八代執権となり、若干18歳で国難「元寇」に立ち向かうことになります。
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「降伏せよ!」
膨大な軍事力を背景に降伏を迫る元の使者に、日本中が右往左往する中、北条時宗は、微塵の迷いもなく使者の首を刎ねて、これが返事だとばかり突き返します。再び使者が来て降伏を迫ると、またもや何の迷いもなく首を刎ねて突き返します。
この日本国の運命を一身に背負う若者に、無学祖元は書を送りました。
「 莫 煩 悩 」 (まくぼんのう)
これに時宗は、一言「喝!」と応じて、戦いへ向かうのです。
元寇の戦いは、熾烈を極めました。
銅鑼を鳴らし、火薬を炸裂させて襲いかかる元軍。初めて戦う異国軍と戦法に、武勇の誉れ高い鎌倉武士団もビビッて恐れを抱くのですが…!?
振り返るに、微塵の恐れも迷いもなく構える北条時宗。この揺るぎない山のような姿に武士たちは覚悟を決めて奮い立ち、何とか水際作戦で元軍の上陸を食い止め続けます。
また、苦戦する武士たちを見た時宗は、
「これじゃ埒があかない。こうなったら元よりもでっかい船を作って敵の本拠地に攻め込むのだ。早速、船を作れ!」
家臣たちは唖然とするも、冗談でなく本気で命令する時宗に、大騒ぎで船の建造に取り掛かかりました。
この北条時宗の不倒不屈の気合いと根性に感化され、幕府のみならず朝廷、神社・仏閣も商人も農民も一団結、All Japanで国難に立ち向かい、神風を呼び込むのです。
余談ですが九州地方を始め歴史ある神社・仏閣の殆んどは「神風はうちの神様(仏様)が起こした」と記してます。これは国中の神社・仏閣が未曾有の国難から日本を守りたまえと必死の祈願をしたのでしょう。それだけ大変な時代であったとともに、本当に国中を挙げて一致団結していた証ではないでしょうか。
ところで普段の北条時宗は、武骨で荒々しい武士の頂点に立つには似つかわしくない、信仰深く温厚な人物で、家では優しいお父さんだったそうです。以前、NHK大河ドラマで和泉元彌が時宗の役を演じ、軟弱すぎて似つかわしくないと非難が起こりましたが、あの軟弱さが実物に近い姿だったのかも知れません。
ところが窮地になると一転…
蒙古来る 北より来る 相模太郎、胆甕(たんかめ)の如し
蒙古来る 我は怖れず 我は怖る 関東の令、山の如きを
江戸時代の歴史家の頼山陽は、北条時宗の不倒不屈の精神力と肝っ玉の太さを甕の如しと大絶賛します。
「 莫 煩 悩 」
煩い悩むな!
不安、葛藤、妄念妄想を一刀両断し、
過去を悔まず、未来を憂えず、
覚悟を決めて、いま為すべきことを断行せよ!
北条時宗の「莫煩悩」の境地は、我々に鎌倉武士たちの「武道」の何たるかを思い知らせてくれます。
武道を修める私達は、まさに「莫煩悩」をもって日々の勉強に仕事に取り組まなければいけません。
特に受験生には、不安や葛藤、ストレスで煩い悩むことなく、最後の追い込みの勉強に没我没頭して受験に臨んで頂きたい!
高見空手門下の受験生に送る言葉
「莫煩悩、喝!」
高見 彰
- 2014-02-25 Tue | URL | 正拳コラム | Edit | ▲PAGE TOP