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『日本人の知らない武士道』の日本人レビュー

 今回の正拳コラムは、アレキサンダー・ベネット著『日本人の知らない武士道』を日本人の私(高見彰)がレビューします。この本は、前回のアンパンマンコラムの最後に紹介しましたが、皆さまは読まれたでしょうか?

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 もし、これから読まれる予定の方がいらっしゃいましたら、以下は『ネタバレ』になりますのでご注意ください。

---著者略歴---

アレキサンダー・ベネット

 関西大学准教授。1970年、ニュージーランドのクライストチャーチに生まれる。87年に交換留学生として初来日、千葉県の高校の部活動で剣道を始めたのをきっかけに武道に惹かれ、武士道にも深い関心を抱くようになる。カンタベリー大学卒業、同大学院修士課程修了、京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了、カンタベリー大学博士課程言語文化研究科日本文化修了。国際日本文化研究センター助手等を経て09年より現職。剣道錬士7段、居合道5段、なぎなた5段。

※「BOOK著者紹介情報」より

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 この本は、友人から教えて頂いたのですが、アレキサンダー・ベネットさん(以下、アレックさん)には読む前から親近感を感じました。

 それは、極真会館の郷田勇三師範(現・最高顧問)の内弟子時代、米アラバマの大山泰彦師範の元からペリー・バネット先輩という方が空手留学で来日し、田端道場で一緒に汗を流しました。

 その後、今度は私が渡米することになるのですが、ペリー先輩には公私に渡り大変お世話になりました。このペリー先輩の「バネット」と「ベネット」と、名前の「バ」と「ベ」の1文字違いに妙な親近感を覚えたのです(笑)

 そして本書を読み終え、予想通りの素晴らしい良本でした。試合に対する考え方やスポーツと武道の違い、残身(残心)の考え方、衰退する日本武士道への憂いなど共感する部分も多く、大変勉強になりました。

 古典はじめ万卷の書を訪ね、ここまで学術的に「武士道」に迫った方はおられないのではないかと思います。

 武士道に真摯に向かい、西洋人ならではの理論的アプーローチで研究されて、武士道とは何かを明解に述べられるアレックさんに頭が下がる一方で、本来、これは私たち日本の武道家がやらなければいけなかったことでは?と、悔しさと寂しさを感じました。

 素直な心でこの『日本人の知らない武士道』を多くの方々に読んで頂きたく強く願います。

 また日頃、私より

「トロフィーとか賞状を貰う為に稽古しているんじゃない!」
「人を尊敬し、思い遣りの精神を養うのが武道の試合である」

など言われている高見空手門下がこの本を読んだら、思わずニヤッと笑うかもしれません。その位、随所に共通する部分がありました。

「残心」については、極真会館時代より高見道場では「ガッツポーズ」「胴上げ」を禁止致しております。理由は、アレックさんが書かれている内容と全く同じです。

「勝っておごらず負けて悔まず」も高見総師からは選手の心構えとして、ことあるごとに指導を受けてまいりました。

 また、大山泰彦最高師範からは「心をコントロールすることが武道だ」と毎日ご指導頂いておりました。(口癖か、と思うほど言って頂いておりました)

 アレックさんが武士道研究を志したキッカケは、知人からの武士道への質問に漠然としか答えられなかった体験と言われている所に、私のアメリカ修業時代と重なりました。私がアメリカ修行で感じたことに、アメリカ人道場生の方が「武士道」「日本文化、武道精神」について強い関心を示される方が多くおられました。これは最近の空手を「競技」として捉えている日本人と対照的でした。

 アメリカ人道場生が空手に求めるものは、日本人以上に武道・武士道精神でした。彼らは敬意の念を持って稽古し、少しでも空手をマスターして武士道の神髄に触れようと様々質問してきました。私は彼らの求めに何処まで応えられたのか、今更ですが反省しきりです。

 書きものでは素人の私が恐縮しますが、欲を言えば『道』という概念からのアプローチがあれば、本書に深みが増すと思いました。
 また、アレックさんは「武士道は日本固有の精神文化」という主張には与しないと述べられています。

 私は、武道に限らず、書道も華道も何でも『道』として取り組む精神性こそが日本人固有の文化と思います。この『道』を抜きにして武士道や日本文化は語れません。

 他にも「礼儀とエンパシー」の部分も、「礼儀」とは少し違うように感じました。最近の空手大会に於いてよく見受けられる事ですが、勝った選手が試合終了後、負けた選手の所に「有難うございました!」と笑顔で挨拶している姿に「無慈悲」を感じております。

 「有難うございました」もタイミングと言葉に込められた想いです。

 空手に命をかけて修行して負けた選手ほど、負けは本当に悔しいし苦しいんです。私の弟子には、勝者は自分に負けた相手のことを想うなら、全力で次の試合に集中し、必ず勝て!と指導致しております。 敗者に声をかけられるのは共に稽古した師匠と仲間と何より大切な家族だけだと思います。「残心」と「慈悲の心」表裏一体のように思います。

 やはり学問の切り口で「武士道」を理論的に理解するには限界があるのも事実です。以前、正拳コラムで述べた通り「道」と名付くものには「不立文字」「教外別伝」が存在します。

 また山岡鉄舟は、武士道を「神。儒。仏。三道融和の通念」と述べました。

 アレックさんは、武士道を理解するために何千冊と云う本を徹底研究されました。しかし更に深く探究しようとしたら山岡鉄舟が指摘する「神」「儒」「仏」の世界にまで踏み込まなければならず、そこには「不立文字」という大きな壁もあります。

武士が素読した「儒」の四書五経だけでも深遠な内容で、
「禅」は僧侶が悟るために命がけで取り組むもの、
「神」に至っては日本民族の宗教性や民俗学など「大和魂」に及ばなければなりません。

 また、アレックさんの指摘する江戸時代以前の「武士道」においても「神」「儒」「仏」は存在しました。

 元寇の北条時宗はじめ鎌倉武士は、禅によって心を鍛えております。南北朝時代「大義」に生きた楠木正成は、宋学を修め、禅にも精通しておりました。もっと昔の万葉集に収められた防人の歌には「剣魂歌心」の精神性があります。

 こう考えると研究範囲が、あまりにも膨大で深遠過ぎて、学問的アプローチのみで武士道の神髄に迫るのはキビシイと云わざろうえません。

 私は勉強が苦手でアレックさんのようにクレバーでないので学問的に武士道に迫ることは出来ません。しかし武士道は、良き先生や良き仲間との出会い、汗を流す稽古が重要で知識や学問はあくまで修業を補うものとして、先人たちの言語録を読み、その人生や生き様を訪ねておもんばかるなど、多くの『武』に触れていくことが大切と稚拙ながら考えております。

 また、山岡鉄舟の剣禅話やベネットさんの本の通り、明治維新前はことさら「武士道」という言葉はなく、武士たちのごく普通の考え方でした。武道教育とは、稽古などを通じて、この精神性を子供たちに伝えることと思うのです。抽象的ですが武士道は、知識として理解するものでなく稽古・修行を通じて心と魂に自然と備わっていく精神性ではないでしょうか。

 例えば高見空手では、内弟子の岡田碧依がレポートした「2014夏季合宿」に、岡鼻首席師範の

「家に帰るまでが合宿だから、みんな事故、ケガのないよう気を付けて下さい」

との締め言葉が紹介されています。

▼2014夏季合宿/碧依の内弟子レポート
https://www.karate-do.jp/archives/99.php

 ごく普通によく言われる言葉ですが、これが武道でいうところの「残心」です。

 岡鼻首席師範は、学問知識から「残心」を意識してお話された訳ではありません。武道家として、自然、普通に話された言葉が結果的に「残心」になっているのです。理論・知識から出た言葉ではありません。

 また先日、本部道場の稽古後、74歳の藤田誠一(二段)が入門したばかりの迅(とき)くん5歳に

「頑張って稽古して黒帯になろうな」と、声を掛けていました。

 道場と学校の大きな違いは、藤田二段74歳と迅くん5歳の関係が、先生と生徒ではなく、同じ空手道を稽古する先輩と後輩であり、同じ道を歩む同志であり、修行仲間なのです。

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 道場には、学校や仕事の違う様々な道場生が集まり、性別年齢を超えて一緒に稽古して汗を流し、藤田二段と迅くんのようなハイタッチな交流が行われています。ここに武道教育の一端があります。やはり武道・武士道は、学問・知識として頭で理解するものでなく、稽古はじめ体験を通じて修得するものです。

 でも、私が指摘する以上にアレックさん自身が、理論的アプローチによる武士道理解の限界や「不立文字」の存在をわかっていらっしゃるのではないでしょうか。何よりご自身が武道家で実践を重んじており、学問で武道・武士道が説明できたら、ここまで恋して夢中になり、ライフワークとして研究するハズありません。武士道は深遠で奥深いからこそ、生涯を掛けて取り組む価値があるのですから。

 この本は、私もアレックさんに負けないくらい武道・武士道に取り組もうと、改めて決意させてくれました。まだ読まれてない方は、是非「日本人の知らない武士道」を蔵書に加えて頂けたらと思います。

 最後にアレックさんは、衰退していく日本の武士道精神に対して本書を通じて警鐘を鳴らしてくれました。私は長年、空手道場という現場にいるため、アレックさんと同じように肌で日本の武道や武士道精神の衰退を感じております。

 そこで高見空手では、改めて「武道文化の振興と啓蒙」を課題として、微力ながら空手セミナーや演武会を積極的に行って、少しでも多くの方々に空手道の『武』に触れて頂こうと決心ました。

▼セミナー&演武会による「武道文化の振興と啓蒙」活動
https://www.karate-do.jp/archives/110.php

 ところで最近、郷田道場時代の先輩と30年前との道場の様子の違いについて話しあったのですが、その時に経済界の『武』をご紹介頂き、目からウロコが落ちました。武士道は、武道の世界のみならずビジネスはじめ様々な世界にも存在していたのです。これは正直、嬉しかったです。

 それで次回コラムは上記で触れた「剣魂歌心」を解説させて頂き、その次からは趣向を変えて、ビジネスの世界の『武』も紹介していきたいと思います。

お楽しみにm(_ _)m

アンパンマンの『負けて知る武士道』

 まず初めに、お陰さまで『第一回 愛媛県空手道選手権大会』が無事終了いたしました。これも皆様のご支援とご指導、ご尽力の賜物でございます。皆様には、この場をお借りして感謝申し上げます。

誠に有難うございました。

 また、出場選手のみなさまも本当にお疲れさまでした。白熱した試合のみならず、試合後の「残心(残身)」「礼に始まり礼に終わる」姿など、日頃の稽古によって培われた『武』を如何なく発揮できたのではないでしょうか。

日本武道館の武道憲章に 「勝っておごらず負けて悔まず」 があります。これは近年、使われ始めた言葉ですが素晴らしいと思います。出場選手には、この意味するところを心中深く噛みしめて、益々、武道修行に邁進して頂けたらと思います。

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 ところで「勝っておごらず負けて悔まず」は、「…負けて腐らず」「…負けて僻まず」「…負けて怯まず」など様々な言い回しがあり、野球の長島茂雄元監督や水泳の久世由美子コーチが出典との説があります。ただ、武道憲章が昭和62年制定なので時期的に出典が何処なのか判断は微妙です。

 ただ、個人的に「腐らず」は、ミスターによる「悔まず」のアレンジなのかな?と、勝手に推測したりして…(長島監督、ゴメンナサイ)

 そして今回の正拳コラムは、前作の徳川家康公の遺訓に生きた慶喜コラムに続き「負けて知る武士道」をテーマに、タイトル通りアンパンマンの生みの親「やなせたかし先生」…ではなく、

アンパンの生みの親「木村安兵衛」をご紹介します。

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「勝っておごらず負けて‘腐らず’」通り、負けても‘腐らなかった’アンパンマンの『武』?とは如何なるものでしょうか。

━━━ 徳川家康公 遺訓  ━━━

人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。
勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば害その身に至る。
己を責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。

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 1817年、下級武士の次男として生まれた長岡安兵衛は、22歳で農家を営む木村家の婿養子となりました。木村家の農地は小貝川の脇にあり、氾濫が絶えません。

「いくら必死に働いても、洪水で全て一瞬に流されてしまう…」

 安兵衛は農業を見切り、本家の木村垂義の伝手で桑名藩の御蔵番の職を得ます。ところが明治維新となり、安兵衛も他の武士と同じように失業してしまいます。しかし、またもや木村垂義が失業武士救済の職業訓練施設「東京府授産所」の所長に任命されたお陰で、運よく事務員として働くことが出来ました。

 ここで安兵衛は、梅吉というパン職人と出会い
「これからは日本人もパンを食べるようになる」と考えます。

 梅吉にパン作りを教えてもらった安兵衛は、明治二年、五十二歳で日本初のパン屋「文英堂」を創業しました。ところが人々は、珍しそうにパンを見るばかりで誰も買いません。更にお店も火事で全焼してしまいました。

 一文無しとなりましたが、何とか気を取り戻し、
「フランスパンのように硬くなく、柔らかいパンなら売れるのでは」と、店名を「木村屋」に変えて試行錯誤します。しかし、なかなか柔らかいパンは作れません。

硬いパンは相変わらず売れず、借金はかさむ一方…。

 こんなことなら百姓を続けているべきだった、と、後悔しつつも必死で研究し続け、生地の発酵でイースト菌の代わりに日本酒を醸造させる酵母菌を使う方法を思い付いて、冷めても柔らかいパンを焼くことに成功しました。

 ところが世間ではパンの知名度は上がるも「珍奇な食でバカが喰らうもの」と言われ、まったく売れません。更に悪いことに、またもや火事でお店を失ってしまいます。

安兵衛は、泣き崩れました。

 その後、再び気を取り戻した安兵衛は、人々がパンを嫌うのに饅頭は好んで食べていることに気が付き、それならと試にパンに餡を入れて「あんぱん」と名付けて売り歩いたところ、これが評判となっていきます。

 数ヶ月後、妻の妹婿で浅利道場の師範代であった木村貞助は、安兵衛を山岡鉄舟に引き合わせました。

あんぱんを食べた山岡鉄舟は、開口一番

「これ、うまいじゃないか!!!」

と、大絶賛。

 あんぱんの美味しさに感動した山岡鉄舟は、明治天皇への献上を提案しました。そして2人は、試行錯誤の末、八重桜の塩漬けをパンのへそに埋め込んだ「桜あんぱん」を開発するのです。

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 明治8年4月4日、明治天皇と皇后が隅田川縁の水戸徳川家の屋敷に花見を兼ねて行幸した席に木村安兵衛の「桜あんぱん」と中條金之助の「静岡茶」が献上され、両陛下は賞賛、「桜あんぱん」は宮内庁御用達となって引き続き納めることになります。

 これを機に「あんぱん」はブームとなり、山岡鉄舟はパンの宣伝で安兵衛が結成した市中音楽隊に「ちんどん屋」と命名。また失業武士の救済ビジネスとして、パン屋の創業を勧めて支援しました。

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 普段、さりげなく私達が食べている「あんぱん」には、このような木村安兵衛の挫折を乗り越えてきた『武』の物語があったのです。

『これからは日本人もパンを食べる様になる!』と云う信念を貫く姿勢、洋のパンに和の餡子を入れ作り上げた柔軟な発想と失敗から学ぶ姿勢など、学ぶべき点は様々ありますが、

 私が、一番感銘を受けたのは、パンが全く売れず、2度に及ぶお店の火事で一文無しになるなど、絶望し放心状態になったところから再び立ち上がる精神力です。

 私は、悲しむだけ悲しんだ後に柔らかいパン作りの発想やあんぱんを思いついたりした所に、室町時代の禅僧『一休宗純』が思い浮かんでまいりました。一休さんも師匠謙翁宗為が亡くなった際、師匠の死、自身の不遇、戦の絶えない世に行き詰まり自殺まで計り、運良く助かった後、悟りの境地に行かれており、何故か安兵衛と重なって見えました。甘ったれた気持ちではなく、苦しい時はしっかり苦しみ、迷った時はしっかり迷う事も大事で、安兵衛はその先に光を見つけた様に思えます。

 木村安兵衛の『武』とは、絶望の淵から立ち上がる精神力、家康公の「勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば害その身に至る」が教え示す、負けを知っている者だけが掴むことのできる「勝利」ではないでしょうか!

是非、あんぱんを食べた時には、木村安兵衛の「負けて知る武士道」という『武』の逞しさを思い浮かべて頂けたらと思います。

~ 負けても腐らないアンパンマン武士道 ~

高見 彰 押忍!

<参考サイト>
・茨城県
http://www.pref.ibaraki.jp/hakase/info/04/
・木村屋総本店
https://www.kimuraya-sohonten.co.jp/

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 次回の正拳コラムは、趣を変えてアレキサンダー・ベネット著「日本人の知らない武士道」を日本人の私(高見彰)がレビューしてみます。

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 本書は、単なる外国人による武道体験記&武士道解説ではございません。ベネットさんが、真摯に武士道に向かい探求した素晴らしい本で、私たち日本人の武道家は襟を正して読む必要があるほどの良書です。興味のある方は、ぜひ次回の正拳コラム投稿までに読んでいただけたらと思います。

自ら勝つものは強し!

 今回の正拳コラムは、山岡鉄舟コラムのスピンアウトとして最後の将軍:徳川慶喜について述べさせて頂きます。有名な方なのでご存知とは思いますが、改めて慶喜のプロフィールを紹介します。

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 1837年、徳川慶喜は、徳川御三家の一つの水戸家の斉昭の七男として生まれました。水戸家といえば、TV番組「水戸黄門」でおなじみ水戸光圀公が有名ですが、この黄門さまの教育方針で、代々、水戸家の子供たちは、江戸育ちで軟弱にならないよう水戸で厳しく育てられました。

 ところで真偽のわからない俗説として、
水戸家は徳川御三家の一つですが、当主は征夷大将軍になれない決まりのある一方、唯一、将軍に諌言・苦言の許された存在のため「天下の副将軍」と呼ばれたそうです。

 また水戸家には「もし徳川家と朝廷で争いがあったら帝を奉ぜよ」という家訓が存在し、これが明治維新へと繋がっていきます。これは未来を予見した徳川家康によるとの伝説があり、明治維新の志士たちの尊皇攘夷の思想が家訓による黄門さまの水戸学が発祥なのですから、日本の歴史は本当に奥が深いです。

 話を戻して、水戸で厳しく育てられて学問・武術に秀でた慶喜は、
「権現様の再来」
「徳川の流れを清ましめん御仁」
と、評されるくらい優秀で、世継ぎがいなかった同じ御三家の一ツ橋家に請われて養子となり将軍への道が開けます。しかし、その人生は明治維新という大きな時代の荒波に飲まれていきました。

 安政5年、開国を迫るアメリカに井伊直弼は、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印しました。これに慶喜は怒り、江戸城に乗り込んで井伊直弼を詰問するのですが、逆に隠居謹慎処分にされてしまいます。安政の大獄は吉田松陰の処刑が有名ですが、じつは慶喜も一緒に処分されていました。

 その後、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたのを機に、処分が解かれた慶喜は幕府の立て直しに取り組み、度重なる要請で慶応2年、征夷大将軍になりました。その実力は、長州藩の桂小五郎をして
「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ。」と、警戒されます。

 しかし、無情にも時代は慶喜の思惑と大きく違う方向に向かい、坂本龍馬によって薩長連合が締結され、武力倒幕の動きが起こります。

 戦うべきなのか…

 慶喜は苦しんだ末、日本を欧米列強から守るために、将軍としての誇りやプライド、徳川家と幕府そのものを捨てて、未来に及ぶ汚名覚悟で「大政奉還」を決断するのです。

 この決断を知った大政奉還の発案者である坂本龍馬は、感涙して言いました。

「よくも断じ給えるかな。よくも断じ給えるかな…。予、誓ってこの公のために一命を捨てん。」

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老子に次の言葉があります。

「人を知る者は智、自ら知る者は明なり。
 人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。
 足るを知る者は富み、強めて行なう者は志有り。
 その所を失わざる者は久し。死して而も亡びざる者は寿し。」

 また、徳川家康が子孫に残した家訓に
「勝つ事ばかり知りて 負くる事知らざれば害その身にいたる」
があります。

この

「自ら勝つ者は強し」
「負けて知る武士道」

を実践し、自ら幕府に引導を渡して内戦を回避した慶喜は、家康が最も理想とする子孫像だったのかも知れません。

 歴史は、往々にして勝者が都合よく書き換えて敗者の評価を貶め、後世の学者や歴史家は、自分の思想や机上の理論で歪めて評価しがちです。
 しかし、我々は武道家です。先人の生き様や足跡を訪ねて素直に人間性を見つめ、もし自分だったら…と想像しながら、惻隠の情でその想いや境地をおもんばかり、武道修行の糧としなければいけません。

 みなさまは、大政奉還を決断した時の徳川慶喜の想いや境地をどうおもんばかりましたか?

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 話は変わって幕末、徳川幕府は衰退していたのか?弱かったのか?という疑問があります。

 実は、新生・明治政府を支えた官史(公務員)約5000人のうち、約1700人が元・幕臣で、明治政府による優秀な人材ヘッドハンティングによる再就職でした。
 このように徳川幕府は、優秀な人材の宝庫で決して腰抜けではなく、慶喜が薩長との戦いを決断していたら、どちらが勝っていたかわかりません。唯一、言えるのは内戦になったら日本は欧米の植民地となり、今の私達の豊かな生活はなかったかもしれないということです。

 また明治4年、明治政府は、元大名の知藩事を集めて「廃藩置県」を言い渡しました。これにより、大名とその家臣の武士たちは、失業して収入を失ってしまいます。ところが失業したサムライたちは、明治政府の予想に反して殆んど反乱や抵抗は起こりませんでした。
 ラストサムライたちは、生まれ変わっていく日本のために「これでよし」と、やせ我慢したのです。これぞ「武士は食わねど高楊枝!」の心意気であり、世界の歴史を見ても同様の状態に追い込まれて反乱を起こさなかった軍隊は存在しません。

 でも、学者によって明治維新は決して無血革命でなく、戊辰戦争や西南戦争があったと挙げる者もおります。

-- 戊辰戦争と西南戦争 --

 戊辰戦争は、前述コラムの釣りキチ庄内藩など、時代の激流に巻き込まれた感があり、会津藩は天皇への恭順を表明しつつ薩長政府を認めず武装解除しなかった歴史的な立場もありました。

 また、戊辰戦争で思い出されるのが小泉元総理大臣で話題となった長岡藩の小林虎三郎の「米百俵の精神」です。

 改めて説明すれば、戊辰戦争に負けて財政破綻していた長岡藩に、支藩の三根山藩から米百俵が届きます。小林虎三郎は「人材育成こそが敗戦国の復興にとって肝要である」と、これを元手に学校創設しようとしたところ、困窮する藩士たちがお米を配るよう詰め寄りました。

 これに小林虎三郎は
「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と引き下がらず、初代藩主:牧野忠成の残した家訓の掛け軸を藩士たちに見せました。

「 常 在 戦 場 」

 家訓の前に藩士たちは一斉に正座して頭を下げ、後に設立された学校は多くの人材を輩出。後の連合艦隊司令長官、山本五十六も出身者です。このように戊辰戦争の長岡藩にも、小林虎三郎と藩士たちの『公』のために耐え忍ぶ武士道があったのです。

▼山本五十六の「常在戦場」
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▼参考「米百俵で未来を創った男」
http://torasa.fukikou.net/

 また、西郷どんの西南戦争は、新生日本のために自ら不満分子とともに散って消えて行こうとした決断によるものです。結果、西郷どんは、逆賊となって靖国神社に祭られませんでした。心中を痛い程に理解していた山岡鉄舟は、明治天皇の許しを得て、逆賊と云えど日本のために明治維新で亡くなった武士たちを全生庵で供養しました。

徳川慶喜の「大政奉還」の英断、
武士たちの「明治維新」の甘受、

 ここに「人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し」という武士たちの誇りがあり、これこそ『私』を越えて『和』をもって『公』に尽くす武士道精神の最たる事例ではないでしょうか。世界中の国々に奇跡と言わしめた「明治維新」には、全ての武士たちが新生日本のために滅私した歴史、まさに「押忍の精神」があったのです。

 時代は違えど、高見空手の『和』をもって『公』に尽くす精神も此処にあります。

空手道という武道を学んでいる私たちは、敵を倒しライバルに勝利する「力」ばかりを求めず、

惻隠の情で優しくなれる強さ、
煩悩という「心中の賊」を破る強さ、
過ちあれば頭を下げる強さ、

そして公に尽くすために
徳川慶喜の苦渋の道を選ぶ強さ、
明治維新を甘受した武士たちの強さ、

この自分自身に打ち勝つ『武』の強さを涵養しなければなりません。

徳川慶喜とラストサムライ達の『武』 ~ 自ら勝つものは強し ~

高見 彰 押忍!

ーーーーー
次回は、山岡鉄舟コラムのスピンアウト第二弾!
負けて知る武士道をテーマに、アンパンマンの『武』 をご紹介します。

釣りは武士道である?!

 前コラムで山岡鉄舟の「武」は、何より剣術が大好きで、辛く厳しい修行も「これを楽しむ者に如かず(孔子)」の境地と述べさせて頂きました。
 そして、わかりやすい卑近な例として「早朝、悪天候の中でも喜々として出かけていく釣りキチ」を挙げたところ、読者の方から、

「 釣りは武士道 」

との、ご指摘を受けました!!

 そこで今回は、しばらく重厚なコラムが続いたので、ちょっと息抜きで「釣りと武士道」のトリビアにしたいと思います。(釣りと武士道の関係を知らず、興味があって調査してみました。)

 まず初めに、大物を狙う釣りキチを「太公望(たいこうぼう)」と呼びます。太公望とは、紀元前11世紀の中国の伝説の大軍師:呂尚(りょしょう)のことです。

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 周の文王は、川釣りをしていた呂尚を先君の太公が探し求めた大賢人と見抜き、軍師として招きました。そして呂尚は「太公が望んだ人物」から「太公望」と呼ばれ、文王と武王の二代に仕えて大活躍します。
 後の時代、小説「項羽と劉邦」で劉邦に仕えた軍師:張良や、三国志で有名な天才軍師:諸葛亮孔明も太公望の足跡を学び、真偽不明ですが兵法書『六韜』『三略』は呂尚の著作という説もあります。

 この呂尚が釣りキチという説、呂尚の釣りは小物の「魚」でなく軍師として仕える大物の「君子」を釣るための作戦の説。そして千変万化する大自然が相手の釣りは、軍略に通じるという理由により、大物を狙う釣りキチのことを大軍師:呂尚に倣い「太公望」と呼ぶようになりました。

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 また日本では、ひろく一般的に武士の嗜みとして釣りが好まれ、特に次の2つが武士道と深く関わっていました。それは『加賀藩の鮎の毛針釣り』と『庄内藩の磯釣り』です。

『加賀藩の鮎の毛針釣り(ドブ釣り)』

 江戸時代の初期、加賀藩は徳川幕府に恭順の意を示すも、百万石を誇る最大勢力の外様大名としてマークされ、幾度となく取り潰されそうになります。こんな状況で家臣に武芸を奨励したら、それこそ謀反を企てているのでは?と、あらぬ疑いを掛けられて大変です。
 そこで加賀藩は、剣術のかわりに鮎釣りを武士の特権(と云うより必須科目)として奨励しました。

有名な鮎の釣り方に「友釣り」があります。

 これは、鮎が縄張りに侵入する他の鮎に体当たり攻撃する習性を利用して、掛け針を仕込んだ「おとり鮎」を泳がせて引っ掛けて釣る方法です。

 しかし、この釣り方は
「おとりを使うのは武士道にあるまじき卑怯な行為」として採用されませんでした。

「武士にとりて卑劣な行為、曲がりたる振舞ほど忌むべきものはない」とは、新渡戸稲造「武士道」にある義の一節ですが、それより前の江戸時代初期、釣りにまで『卑怯・卑劣を憎む心』がすでに存在していたことに私は驚きました。

 そこで新たに開発しされた技が、河川の深部に毛針を沈めるドブ釣りです。鮎の毛針のドブ釣りは加賀藩がルーツで、「加賀竿」や「加賀毛針」という伝統工芸も発展しました。

 そして加賀藩の武士たちは、剣のかわりに釣竿を持って足腰の鍛錬やバランス能力、集中力などを養い、鮎のドブ釣りを隠れた武士の鍛錬方法としました。

・加賀竿
http://goo.gl/3GhnPH
・加賀毛針
http://goo.gl/1Haoe7

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『庄内藩の磯釣り』

 庄内藩(今の山形県鶴岡市)では1707年、すでに藩主が釣りを楽しんでいた記録があり、第八代藩主の酒井忠器(ただかた)は、江戸時代の平和な世の中で武芸が衰退していくことを憂えて磯釣りを奨励しました。かく言う藩主本人とその子の忠発(ただあき)の親子二代も釣りキチで、世界初の「魚拓」は、下の忠発公が江戸錦糸堀で釣ったとされる39センチの鮒です。なんと魚拓は、庄内藩がルーツでした!

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 そして庄内藩の武士たちは、魚を敵の首に見立てて「釣り」を「勝負」と呼び、大小の刀とともに7メートル近い庄内竿と釣り道具を持って、クロダイやタラなど大物を狙って深夜23時発で城下町から山を越えて20キロ以上先の日本海の磯に出かけて行きました。この重たい荷物を持った深夜の山越えの行軍は、大変な足腰の鍛錬になり、肝も練られたそうです。

 また、大物が釣れたら魚拓を取って藩主に報告して褒美をもらい、逆に釣り竿や刀を海に落としたり、誤って海に落ちて死んだりしたら家禄を減らされることもあったとか。

 時は流れて明治維新。

 庄内藩は、会津藩とともに薩長に逆らい官軍と戦います。最新の銃器を装備した薩長に対し、庄内藩士たちは昔ながらの武器で応戦するのですが…。日頃の磯釣りで鍛えた武士たちの山間部や夜間のゲリラ戦術は連戦連勝で、大いに官軍を苦しめました。

 これはもう「薩長軍vs庄内釣りキチ軍」の戦いです。

 後に仙台藩はじめ奥州諸藩の説得で庄内藩も明治政府に恭順の意を示すのですが、あまりに見事な敵の戦いぶりに感動した西郷隆盛の計らいで、逆賊であるはずの庄内藩は殆んどお咎め無しとなりました。まさに釣りで鍛えた尚武の精神のなせる業、庄内藩の釣りキチ武士道ここにありです。

 以下にも庄内藩の磯釣りの情報がありました。伝説の釣り竿「榧風呂」のお話など、釣りキチにとっては大変興味深いのではないでしょうか。

・庄内藩の釣道
http://goo.gl/B4OtkO
・伝説の釣り竿「榧風呂」の致道博物館
http://goo.gl/dI7aXT

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 私は、小さい頃から空手に専念で釣りはやりませんでしたが、正拳コラムで私の拙い文書を監修/校正してくださる静岡出身のS先輩は、人気漫画「釣りキチ三平」世代で、海岸や磯、港、川へと出陣したそうです。

その先輩の話で、クロダイは引きが強くて警戒心もあり、今のような竿や糸がなかった江戸時代、竿を折られたり糸を切られたりして釣り上げるのは大変難しく至難の業だったとか。

 こうして調べてみると、足腰やバランス感覚の鍛錬、技や道具の創意工夫、作戦、集中力に忍耐力の涵養など、釣りを武芸の一環として奨励してきた理由がわかります。

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 ところで高見空手の宇和島道場には、イカ釣りで「愛媛の豪腕エギンガー」と称され、まさに「釣りと武士道」を地で行く全国区の釣りキチ:久保田正輝師範代(釣りネーム:くぼっち)がいらっしゃいます。

 以前、久保田師範代は、某大手釣り具メーカーからCM出演オファーを受けました。これは残念ながら諸般の事情により実現しませんでしたが、頻繁に釣り雑誌の取材を受けたり、昨年はテレビの釣り番組で照英さんと共演しました。

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★☆★ くぼっちの質実剛健 ★☆★
http://ameblo.jp/mas128/

 久保田師範代に釣りの奥義を教授して欲しい方は、まずは高見空手に入門して「尚武の精神」を涵養して頂けたらと思います/

 最後に私は、空手道とは道場の稽古のみならず、日々の道場運営/大会の企画運営からコラム執筆、趣味の読書に至るまで、何でも空手道の修行と思えば、本当に空手道の修行になると考えております。

 この仕事や勉強も、何でも空手道の修行になるという考え方は、空手の道(みち)の「道」たる所以です。「道を修めるとは何か」考えて頂ければ、人生すべてが修行であること、「生活修行」の意味をご理解して頂けるのではないでしょうか。

 しかし今回の調査で、ここまで直接的に「釣り」と「武士道」が繋がっているとは予想できず、久保田師範代の釣りキチもなるほどと思いました!

 それでは次回は、山岡鉄州コラムのスピンアウトとして徳川慶喜の「武」をご紹介したいと思います。

高見 彰

山岡鉄舟が教示する武士道/武道感 vol.3

※旧タイトル:「あんぱん」と「味付け海苔」vol.3

 前コラムでご案内した小説「命もいらず名もいらず」を読まれた方も多いかと思います。それで私が追加で紹介を受けた鉄舟の小説も紹介させて頂きます。

津本陽 著 『春風無刀流』 文春文庫

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 この本は、残念ながら廃版でアマゾンで購入しようと思ったら、古本しかありませんでした。内容は「命もいらず名もいらず」と同じく淡々とエピソード(事実)を並べた構成で重複しない部分が多く、津本陽だけあって読みごたえがあります。ぜひ『春風無刀流』も合わせてお読みください。

※余談ですが私がアメリカ留学中、大山泰彦師範に渡され初めて読んだ津本陽の本は『剣のいのち』でした。

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 皆さまは、山岡鉄舟を知ることで様々な「武」を受け取られ、日々の稽古や武道に対する取り組みの糧になったかと思います。どのような「武」を受け取ったのか、人それぞれ違いがあり、個性があってよいと思います。

 それでは私が受け取った鉄舟の「武」を述べさせて頂きます。

 鉄舟は、明治維新で廃藩置県や廃刀令によって武士の世の中が終焉しても剣を置かず、ひたすら厳しい修行を続けました。この難行苦行を楽しむほど剣術を愛して止まない境地が、山岡鉄舟の「武」の神髄ではと考えました。

論語に次の教えがあります。

子曰く、
これを知る者はこれを好む者に如かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

※「楽しむ」とは享楽的なエンジョイでなく「道」を学ぶ喜びと楽しみです。

 また、鉄舟は「武」を極めるために徹底した禅修行もしました。

星定和尚に教えを乞うため週一ペースで片道120キロの龍沢寺に参禅し続け、
洪川和尚に境地を語って「よくしゃべる無心じゃわい」とキセルで頭を叩かれ、
滴水和尚からバカモノと叱られて「殴る蹴る」の指導を受け…

明治天皇の教育係として侍従するまでになった、四十歳近い自分をボコボコになるまで厳しく指導してくれる師に感謝し、喜々として修行に邁進します。鉄舟は、剣術を誰よりも愛し、修行を誰よりも楽しんでいたのです。

 この鉄舟の剣術修行に向かう姿勢を知るにつけ、みなさん、同じような武の巨峰を思い浮かべませんか?

そう、空手バカ一代の大山倍達総裁です。

 若き日の山籠もりに命がけの武者修行と、壮絶な空手の修行があるのですが、その奥には難行苦行そのものまで楽しむ程、自らをバカと称するほど空手を愛して止まない境地があったのは言うまでもありません。

真夜中、鉄舟が、いきなり起きて横で寝ている妻を起して木刀を構えさせるところなど、
深夜いきなりガバッと起きて「正拳」の握り方を試す大山総裁の姿に重なってしまいます。

仏教で「三昧の境地」というのがあります。
「楽しくて無我夢中となり我を忘れて集中している境地」です。

鉄舟も総裁も「三昧の境地」で武道修行に取り組んだのではと私は思うのです。

もっと、わかりやすく卑近な例でいえば「釣りキチ」です。

釣りキチにとっては、徹夜仕事明けの早朝出発、暑さ寒さ、悪天候の中での釣りも楽しくて仕方ありません。周りから見たら、何でそこまで難行苦行して、魚釣りするのか理解不能です。身近に、このような釣りキチはいませんか?

『これを知る者はこれを好む者に如かず。
 これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。』

 これこそ武道のみならず、あらゆるお稽古ごと、ものごとを習得し極める上で最も大切な姿勢であり、角度を変えて言えば、勉強でも仕事でも、嫌なことも辛いことも、心の持ち方ひとつで天国にも地獄にもなるということです。

 私自身、このコラムで様々な「武」を論じてますが、その根本には「武道が大好き、空手道が大好き」があり、これは恋愛と同じく理論理屈じゃありません。辛かろうが苦しかろうが好きことは好きで、楽しいことは楽しいのです。

 私は、辛い稽古や、如何に相手を倒すのかを考え技を創意工夫することが何より楽しく、また空手道の修行を通じて自分を高めていくことに喜びを感じています。高見空手の先生方も、皆、空手道が大好きで刻苦精進していらっしゃいます。

 今治道場の南條師範が5月22日のFacebookで
「第一回 高見空手 愛媛県空手道選手権大会」に触れ、

「勝つのが目標、負けても しがみついても前に倒れる、
 意味のある明日に繋がる組手を目指たい。
 わたくしの大好きだった空手道の始まりです。」

と、述べられていらっしゃいました。

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※南條師範の氷柱割り写真

※今治道場Facebook
http://jump.cx/ehj0G

 この南條師範の「わたくしの大好きだった空手道」の言葉に込められた「想い」と「境地」こそ武道の修得にとって大切と思います。

理論・理屈じゃない、
何より剣術が大好きで命がけの難行苦行すら楽しくて仕方ない程の境地を以て、
山岡鉄舟の「武」と受け取りましたが、皆さまは如何でしょうか?

---おまけコラム---

 六十回余り戦って全てに勝利した宮本武蔵と違い、一度も実戦で敵を斬ったことのない山岡鉄舟は本当に強かったのか?

東海道の大親分、清水の次郎長との間に、こんな撃剣問答があります。

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「先生、撃剣なんて役に立たないですね。この野郎!って、アタシが睨んだら、たいていのお侍は逃げ出してしまいます」
「そうであろう。では、この刀で斬り掛かってきなさい。私は料理で使う‘すり棒’で相手しよう。僅かな傷でもお前の勝ちだ!」

 幾度となく喧嘩をしてきた百戦錬磨の次郎長も、こここまで云われてはと負けん気がもたげ、丸腰で座っている鉄舟に本気で斬りかかろうしますが、何故か足がすくみ心が萎えて体が動きません。

蛇に睨まれたカエル状態です。

「こいつはいけねぇ。こう竦んでしまうのはどういうわけなんでしょ?」
「それは、お前が、この野郎って相手を竦ませるのと同じだよ。目から光が出るんだ!」
「アタシも撃剣を修行したら、その光とやらは、もっと出るようになりますか?」
「ああ、なるとも!目からピカーッと光が出なければ、偉くなれねえよ」

こう言うと、鉄舟は嬉しそうに
「眼光輝を放たざれば大丈夫にあらず」 と書いて次郎長に渡しました。

 また、三島の龍沢寺への参禅の道中、箱根の山道で人足たちに金品を要求された時、
「わしに追いついたら望み通り何でも進上しよう」と言って、戦わずに疾風の如く走り去ったそうです。

 山岡鉄舟は、無敵の強さを求めて誰よりも激しい修行をする一方、相手を傷つけてしまう戦いを避け、また、圧倒的に強すぎて(目から光ピカ〜で)、誰も戦おうとはしなかったと云うのが事実のようです。

 最強無敵の強さと、決して人を傷つけない優しさを併せ持つ武人が鉄舟なのです。

 他にも鉄舟は、フードファイター?よろしく日本酒7升、饅頭108個、ゆで卵97個という大食い記録を残してます。しかも、ゆで卵は、100個越えしようとして気持ち悪くなり吐いてしまったとか、笑!

 また、鉄舟がいなかったら「あんぱん」も「味付け海苔」も存在しなかったかもしれません。

 鉄舟は、かならずしも厳格な武道家ではなく、面白くて大変魅力的な人物だったようです。

いや、もう凄いというか何というか、
私たちの想像を絶する規格外の「武の巨匠」でした!!!
 
========「剣禅話」覚え書き(上級編です)========

「剣禅話」の第2部「修養論」(武士道/ 修心要領/ 心胆錬磨之事)より、自分の修行のための覚え書きも兼ねて抜粋し、簡単な所感を加えてみました。原文なので難しいかもしれませんが興味のある方はどうぞ!

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『わが邦人に、一種微妙の通念あり。神道にあらず、儒道にあらず、仏道にもあらず、神。儒。仏。三道融和の通念にして、中古以降専ら武門に於て、其著しきを見る。鉄太郎之を名付て武士道と云ふ。然れども未だ曾て文書に認め、經に綴って伝ふるものあるを見ず。』

 山岡鉄舟による「武士道」の定義です。明治維新前の江戸時代までは、ことさら「武士道」という言葉は存在せず、ごく普通の武士の考え方でした。
 それを山岡鉄舟が初めて「武士道」という言葉を使い、数十年後、この影響を受けた新渡戸稲造や内村鑑三が、西洋文化に対する日本文化として「武士道」を取り上げたのが始まりです。

 私は、新渡戸稲造の「武士道」が大好きで繰り返し読んでましたが、山岡鉄舟を紹介して下さった先輩に
「新渡戸稲造は、キリスト教信者で優れた教育者であり学者なんだけど武道家ではないんだよね」と、教えてもらいました。

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『善悪の理屈を知りたるのみにては武士道にあらず、善なりと知りたる上は、直に実行にあらわしくるをもって、武士道と申すなり。そしてまた武士道は、本来心を元として、形に発動するものなれば、形は時に従い、事に応じて変化変転極まりなきものなり。』

 武士道は、理論/理屈の知識で終わらず、良心に従い「善」を実行することと述べてます。これは陽明学の「知行合一」からきていると思いました。
 また、「敵の攻撃」から「日常生活での様々な課題や困難」に至るまで、あらゆる状況に対して臨機応変・自由自在に対処できるのが武士道とも説いてます。

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『世人剣法を修むるの要は、恐らくは敵を切らんが為めの思ひなるべし。余の剣法を修むるや然らず。余は、此法の呼吸に於て神妙の理に悟入せんと欲するにあり。』

『余の剣法を学ぶは、ひとえに心胆錬磨の術を積み、心を明らめてもって、己また天地と同根一体の理はたして釈然たるの境に到達せんとするにあるのみ。…』

 これは相手を倒す単なる「武術」から、人として高きに至る「武道」へと昇華した考え方で、現代の「武道」の在り方の雛形となっています。

---

『余人或は余を見る事、猛虎の如しと。然れども余、未だ嘗つて殺生を試みたる事なきのみならず、一点他人に加害したる事も亦あらざるなり。否、猶修身斯道(士道)に違はざるを誓ふ。是れ、余が剣法修行の自覚となす。』

 山岡鉄舟は、激動の時代を生き抜きながら、生涯、一度たりとも人を斬ったり傷付けたりしませんでした。

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『いかなる万変に合うも、いささかたりとも動かず、その難を堪え忍び、綽々として、その境遇に座を占め込んで、その大事を処理するというに至っては、その苦心惨憺の状は、とても死ぬくらいな手軽ではできざるはずなり。しかるを、その苦しさに死してその難を免るるなどは、まずまず錬胆の実薄く、忠孝仁義の誠に乏しき、畢竟愚鈍の沙汰なりと心得べし』

 辛く厳しい状況に陥った時、微動だにせず問題解決に取り組むのが武士道であり、辛さ苦しさから死んで逃げるのは、日頃の鍛錬がなっておらず、忠孝仁義の誠が乏しく愚かな行為である。
 死ぬより辛く厳しい「生きて問題解決する道」を選ぶのが武士道であると「喝!」を入れます。

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『無刀とは何ぞや。心の外に刀なきなり。敵と相対する時、刀に依らずして心を打つ。是を無刀という』

⇒『 心を以て心を打つ 』

 鉄舟が晩年に興した無刀流の極意です。これは西郷隆盛と折衝して江戸を戦禍から守り江戸城無血開城させた山岡鉄舟の「武」ではないでしょうか。

 また、富士山を見て大悟した境地の歌

『 晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は かはらざりけり 』

とともに有名な歌

『 死んだとて 損得もなし 馬鹿野郎 』

があります。

 もしかして、この歌は前述の「いかなる万変に合うも…」とともに、明治政府のため不満分子とともに消えて行くことを決心した西郷隆盛への悲しみの吐露では、と、推測したのですが、ご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください。

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 山岡鉄舟は、学者や哲学家、もの書きでなく、人を集めて講演したことも、門下生を一堂に集めて訓示を述べたこともありません。残っているのは、鉄舟が書き残した短い文章と、門下生はじめ様々な人々が口伝し、また書き残した資料のみです。この剣禅話の僅かな資料だけでも、鉄舟の「武」の凄さが伺えます。

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