正拳、まず心より学べ!
ショートコラムです。
前回の大和撫子コラムで紹介した武士道マンガにも掲載されていましたが、皆様は、島田虎之助をご存知でしょうか?
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島田虎之助(1983~1852)は、男谷信友、大石進とともに幕末の三剣士といわれた剣豪であり、若き日の勝海舟の師でもあります。虎之助は、九州中津の出身で、10歳から剣術を学び、15歳にして藩内で相手がいないほどの腕前。
また、剣術以外にも広瀬淡窓(ひろせたんそう)に儒教を学び、臨済宗の仙厓義梵(せんがいぎぼん)を始めとする高僧に禅を学びました。
その後、虎之助は、江戸に出て直心影流剣術の男谷信友の内弟子となって剣術修行、その傍ら鈴木清兵衛の道場にも通って起倒流柔術(講道館柔道の源流)も学びます。
後の山岡鉄舟に先掛けて、「剣」「禅」「儒」を極めていく島田虎之助でしたが、残念なことに若干39歳の若さで病没してしまいます。
そんな島田虎之助が残した有名な言葉
『 其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ。 』
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惚れ惚れする程、カッコいいですよね!
勝海舟の「無偏無党、王道堂々たり矣」には、師である島田虎之助の教えがあることは言うまでもありません。
まず心から学べ! 自らの感情に振り回されず、悪しき欲望/誘惑に負けない心。今更ながらUSA大山空手の内弟子時代に大山泰彦最高師範に幾度となく言われた言葉
『心をコントロールするのが空手道だ!』
が心に響きます。押忍!
そして「剣」を「拳」に置き換えれば空手道の「正拳(正しい拳)」。われわれ高見空手一門も島田虎之助の教えを心に刻み、武の道を邁進したいと思います。
其れ拳は心なり。心正しからざれば、拳又正しからず。すべからく拳を学ばんと欲する者は、まず心より学べ。
『 正拳、まず心より学べ! 』
高見彰 押忍!
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To master "Ken", you must master your mind first.
"Ken" is the mind in the first place.
When the mind is not right, "Ken" is not right, either.
Anyone who wishes to master "Seiken" must master his own mind first.
In honor of a great Samurai, Toranosuke SHIMADA, I wrote this down.
July 7, 2018
Akira Takami
- 2017-03-12 Sun | URL | 正拳コラム | Edit | ▲PAGE TOP
武士道の源流を探求する 番外編 〜大和撫子七変化!〜
先日、面白い本を入手しました。
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これは新渡戸稲造著『武士道』をマンガで紹介している本で、マンガなので読みやすくて面白いです。武士道なのに何故か表紙が女の子。ちょっと座右の書にするには恥ずかしい本ですが、是非、ご興味のある方はどうぞ!
平安時代の恋愛観
話を戻しまして『武士道を探求する』執筆のために先生方や古くからの先輩にいろいろ教えて頂きましたが、その中に面白いエピソードがありました。
歴史好きの先輩は中学時代、源平合戦の物語を読もうとして『平家物語』でなく『源氏物語』を購入してしまったそうです。そしてワクワクしながら読み始めたら恋愛小説…
嗚呼、先輩!
諸行無常の響きあり
(後から聞いた話で、間違って「源氏物語」を購入したのは「勝者が物語のタイトル」という先入観からだそうです。私は、負けた「平家」をタイトルにしているところに日本人の惻隠の情や『剣魂歌心』を感じてしまいました。)
ところで『源氏物語』は、みなさんご存知の通り古典の代表作で、主人公の光源氏の恋愛遍歴の物語です。そして何と光源氏の恋愛相手は15人。先輩は『平安時代が羨ましい』と悔しがっていました(苦笑)
実は、源氏物語よろしく平安末期の貴族の男女関係は相当乱れていたそうです。私は、現代の価値観で評価するのは的外れと考えていたところ、当時も貴族たちの恋愛観に怒っていた方がいることを知りました。
その人物とは『北条政子』、初代将軍;源頼朝の妻です。
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北条政子
1157~1225年(享年:69歳)
北条時政の長女
源頼朝の正室
エピソード
源頼朝は、父の義朝が平治の乱に敗れたために伊豆国に流されます。そして政子は、父の北条時政が見張り役に就いたのが縁で頼朝と出会い、周りの反対を押し切って結婚します。
後に源義経の愛人が義経を慕う歌を詠んで頼朝が激怒した時、政子は
『私たちも許されない恋をして結ばれたではないですか。』と、頼朝をたしなめて事なきを得ます。
また、長男の頼家(2代将軍)、次男の実朝(3代将軍)が立て続けに暗殺されたのを機に、後鳥羽上皇が幕府を滅ぼそうと戦いを挑んで来た時、政子は、
『頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深い。しかしながら、もし上皇方につきたい者がいたら、名乗り出るといい。好きなように上皇の元に行くといい。』と檄を飛ばして、上皇との戦いに躊躇していた武士を奮い立たせて勝利へと導きました。(承久の乱)
大和撫子の始まり。妻の尻に敷かれるのも武士道!
北条政子は、何より政治を疎かにして恋愛にうつつを抜かしてきた貴族たちを嫌悪し、同じ轍を踏まないよう鎌倉武士と妻たちの風紀を正し、武士の妻としてのあり方を示しました。こうして社会的には夫を尊重し立てて従いつつも、家庭内ではしっかり夫を尻に敷くという、凛とした大和撫子の文化が誕生するのです。
刑事コロンボではありませんが、妻のことを「うちのかみさん(神さん、上さん)」と呼ぶのは、もしかしたら尻に敷かれた鎌倉武士たちの「自分よりも上の妻には逆らえないんだよ、涙!」という嘆きからきているのかも知れません。お殿さまを「上様(うえさま)」、お役人を「御上(おかみ)」と呼んでましたし、やはり妻は「上さん(かみさん)」でしょうか。
よく「日本も西洋文化の影響を受けて男尊女卑からレディーファーストになりつつある」「レディーファーストは文明国の証」と言われますが、実のところ武士道では、西洋と形は違えど「いい国作ろう鎌倉幕府」の時代から既にレディーファーストだったようです。
だから師範/先生方はじめ武士道を志す高見空手の男性諸氏は、初代将軍:源頼朝公に倣って
『古来より、妻の尻に敷かれるのも武士道』
と諦め、武道家として奥さまを大切にしてください 押忍!
しかし、北条政子がいなかったら鎌倉武士たちも貴族文化の影響を受けて質実剛健を失い、後の元寇で果敢に戦って国難を乗り越えられなかったかも知れません。日本史における貴族政治から幕府という軍事政権への移行は、ある意味、国難に備えた歴史の奇跡としか言いようがありません。
源平交代論
それでは最後に『源平交代論(源平交代思想)』という都市伝説を紹介します。これは平安時代末期より明治維新に至るまで、日本の政治は豊臣秀吉を除き源氏と平家が交互に担ってきたことです。
源義家(源氏)⇒平清盛(平家)⇒源頼朝(源氏)⇒北条義時(平家)⇒足利尊氏(源氏)⇒織田信長(平家)⇒(豊臣秀吉)⇒徳川家康(源氏)
みなさんご存知の通り、北条政子は平家です。そう考えると源氏の統領;頼朝公を尻に敷いた平家の北条政子が源平交代サイクルに大きく影響したのかも知れません。
いづれにせよ清和源氏に桓武平家と、二大武士団は共に皇室を祖とし、伊勢に祀られる天照大御神は女神さまです。
そして剣道に柔道、空手道と、武道の道場の神棚でも女神の天照大御神さまが真ん中で、両脇に武神の鹿嶋/香取という男神さまを従えて祀られてます。日本の神様の世界でも女神さまのほうが偉いのです。
これからも益々、大和撫子が活躍されるのではないでしょうか。われわれ男性陣も負けづに頑張らないといけないですね。
以上で正拳コラム「武士道の源流を探求する」は終わりです。
執筆にあたり様々な情報提供やご指導アドバイスをいただきました先生方と先輩、3部作+番外編という超大作をお読みいただきました皆さま!
誠に有難うございました。
高見彰 押忍!
- 2017-02-03 Fri | URL | 正拳コラム | Edit | ▲PAGE TOP
武士道の源流を探求する vol.3 〜儒教編〜
新年 あけましておめでとうございます
今年も頑張って『勉強』して皆さまに喜んで頂ける正拳コラムを心掛けますので
ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます
高見空手 道場訓
四に曰く、
是非の心は智の端なり 勉励修養を宗とせよ
日本空手道 高見空手
最高範士 高見彰 押忍!
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儒教の伝来
さて、新年最初のコラムは昨年からの続き、『武士道の源流を探求する 第三弾 儒教』です。
前コラム通り、儒教は仏教と共に遣隋使(600~618年)/遣唐使(630~894年)によって日本にもたらされましたが、仏教よりも早く伝わった可能性があるそうです。
当時、大和朝廷(天皇)は、唐王朝から冊封を受けず(中国王朝の臣下/属国の関係)、独立国として対等に交易・外交い、また大宝律令などの法律も制定しました。(冊封を受けた属国は、中国の許可なく自分たちで法律を定める権利がありません。)
また逸話として、遣隋使・遣唐使は、中国皇帝から下賜された数々の宝物を現地で全て売り払ってお金に替え、膨大な書物を買い込んで帰国していったというエピソードが旧唐書に書かれているそうです。
このお話を聞いた時、昔の日本が財宝よりも知識/学問を重視した姿勢に感動を覚えました。
こうして日本に儒教が伝わり、若き日の空海も仏者か儒家か、どちらの道に生きるか思案したことから、平安時代すでに儒教が日本に浸透していたことが伺えます。
そして平安後期から武士が出現しますが、儒教は主に僧侶が修めていたことから『禅』を学ぶ武士たちは、当然、禅僧から『儒教』も学ぶことになります。
また、私が面白いと思ったのが、武士たちは儒教のアンチテーゼである老荘思想(老子/荘子)も学び、矛盾なく吸収していったことです。武士たちが、禅、儒教、老荘思想と相反するもの吸収して、『武士道』という新しい思想哲学を醸造していくベースに神道(聖徳太子の文化モデル)があることは前々述コラムでお話した通りです。
その後、南北朝時代には大楠公;楠木正成が『禅』とともに『宋学(宋の時代に形成された朱子学を中心とする新しい儒教)』を修め、『七生報国』『大義』という生き様を示して後の武士の価値観/人生観に大きな影響を与えます。
徳川家康の施策と陽明学
思想哲学としての武士道が形成されたのは、江戸時代初期です。天下を統一した徳川家康は、戦いを本分とする武士たちをコントロールのために国学として儒教を取り入れます。これは家康が、儒教の持つモラル・道徳性によって荒ぶる戦国武士を大人しくさせようという試みでした。
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このため家康は、理論理屈が中心の『儒教:朱子学』を推奨しました。それは、朱子学と反対に実践を説く知行合一の『陽明学』を学んで暴れられては大変だからです。
しかし、武士たちは「陽明学」を好んで学び、後に家康の危惧通り、農民の苦境を見かねて反乱を起こした大塩平八郎や、明治維新における吉田松陰など陽明学派が暴れることになります。
武士道と東京大学
江戸幕府は、神田湯島に江戸幕府直轄の「学問所」を設立しました。この学問所は『昌平黌( しょうへいこう)』と称され、ここで儒教をベースとした思想哲学/道徳としての『武士道』が形成されていきます。(当時は、ことさら武士道という言葉はなく、武士の心得のようなものだったようです)
その後、明治維新を機に『昌平黌』は解体されて、現在の東京大学/筑波大学/御茶の水女子大学の前身となっていきます。まさか武士道が東京大学に繋がっていたとは私も知らず、この話を聞いた時に本当には驚きました。
もしかしたら『文武両道』が尊ばれるのは、学問所『昌平黌』の思想も影響しているかも知れないですね。
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武士道の源流を探る
以上が私が先生方や先輩に教えて頂き、また一緒に調べた武士道の源流です。
山岡鉄舟の御言葉
『わが邦人に、一種微妙の通念あり。神道にあらず、儒道にあらず、仏道にもあらず、神。儒。仏。三道融和の通念にして、中古以降専ら武門に於て、其著しきを見る。鉄太郎之を名付て武士道と云ふ。』
今回の正拳コラム「武士道の源流を探る」3部作は、山岡鉄舟の説により神・仏・儒の見地から歴史を辿りましたが、これによって改めて武士道が鉄舟の言う通り「神。儒。仏。三道融和の通念」であることをご認識して頂けたかと思います。
しかし東京大学とはビックリです!勉強が苦手だった私が言うことは「おまいう」ですが(笑)、高見空手の子供たちには『文武両道』を心掛けて、空手に勉強にと精進努力して頂けたら嬉しいです!
道場生の子供たちへ!
新春に寄せて
『文武両道、勉励修養を宗とせよ!』
日本空手道 高見空手
最高範士 高見彰
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次回は、『武士道の源流を探る~番外編:大和撫子七変化~』です。
お楽しみに!
- 2017-01-01 Sun | URL | 正拳コラム | Edit | ▲PAGE TOP
武士道の源流を探求する vol.2 ~仏教編~
『武士道の源流を探求する』の第二弾は、『仏教』について述べたいと思います。
本題に入る前に、先日、たまたまコンビニで見かけた『30分で納得 ニッポン文化集中講座 武士道』(エイ出版社)をコラムの勉強のために付け焼刃ながら購入しました ^^
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この本のベースは新渡戸稲造著「武士道」で、特に皆さまにおススメするような本ではありませんでしたが、中に次の画像が掲載されてました。
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この説明図を高見空手サイトのファンの方が見られたら、思わずニヤリと笑ってしまうのではないでしょうか。
武士道の源流が「神」「仏」「儒」にあることは最初に山岡鉄舟が述べた見解で、3年前、私は道場訓を検討する過程でこれを知り、幾度となく当ホームページで紹介させて頂きました。
また、このコラム『武士道の源流を探求する』にも繋がっているのですが、まさかコンビニで買った本に図解入りで解説されているとは思いもよりませんでした。(新渡戸稲造先生の見解としてです)
ひょっとすると『30分で納得 ニッポン文化集中講座 武士道』の著者の方は、高見空手ホームページにある道場訓の解説ページや正拳コラムを読んで参考にされたのかな?などと私自身、妄想が広がったりして(笑)
もし、高見空手サイトを参考に武士道の源流を図解説明されたのなら光栄です、押忍!
閑話休題、今回は武士道を『仏』の側面からの述べさせて頂きます。
遣隋使と遣唐使
武士が誕生する前の平安時代、仏教は儒教と共に遣隋使や遣唐使によって日本にもたらされました。そして聖徳太子は、衆生済度のために仏教を日本に広げようとします。この遣唐使について、ある先輩より興味深いお話を聞きました。
それは遣唐使が日本から大陸に渡れる確率が50%、大陸から日本に戻ってこれる確率が50%!
歴史の教科書にはさらっとしか書いてありませんが、遣唐使は4人に1人しか生きて日本に帰れないことを承知の上で日本のために大陸の文明文化を学び吸収し、また国防のために大陸の情勢を探ろうと命がけで渡航に挑んだのです。
私は大昔の遣唐使たちに「利他に生きる大和魂」を感じてしまいました、押忍!
そして日本が誇る二人の偉大な聖人もまた、衆生済度のため仏道を求めて命がけで大陸へと渡りました。
最澄と空海
伝教大師さまと弘法大師さまについて、仏者でない門外漢の空手家である私が言及することは申し訳ないのですが、御二方とも日本に仏教を導入した聖徳太子を敬い、その生き様や足跡を訪ねたそうです。改めて日本文化の礎を築いた聖徳太子の偉大さを感じます。
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弘法大師空海は、達磨大師から続く「禅」の系譜において六祖:慧能(えのう)から教えを受け、帰国して高野山を開き、諸国を訪ねて人々を救済します。
伝教大師最澄は、帰国して人材育成のために比叡山を開き、そこから道元、日蓮、親鸞、栄西はじめ多くの名僧が排出されました。
そして鎌倉幕府の時代より、武士たちは禅僧に師事して『禅』で心を鍛えようとします。中でも武士道に大きく影響したのが、
・臨済宗(栄西)
・曹洞宗(道元)
・黄檗宗(黄檗)
のビッグ3です。
山岡鉄舟を鍛えた天龍寺の滴水和尚は臨済宗の中興の祖:白隠禅師の系譜、洪川和尚は鎌倉武士を鍛えて元寇を乗り越えさせた鎌倉仏教(禅)を代表する円覚寺派の系譜で、共に臨済宗です。
また、執権・北条時頼に招かれて鎌倉武士を教化した曹洞宗の開祖:道元禅師は、修行者/求道者のバイブルともいえる「正法眼蔵随聞記」で有名、いまも岩波出版で販売されている名著です。
他にも私は興味があって調べたのですが、やはり武将の子供たちの教育係は殆どが禅僧でした。
北条時宗の無学祖元、上杉謙信の天室光育禅師、武田信玄の岐秀玄白禅師、今川義元(&徳川家康)の雪斎禅師、伊達政宗の虎哉宗乙(こさいそういつ)と、枚挙にいとまがありません。
そしてもう一つ、多くの武将が降魔調伏の戦いの神『毘沙門天』を信仰していました。
総師がいちばん好きな武将の大楠公;楠木正成の幼名は「多聞丸」(毘沙門天の別名が’多聞天’)です。また『毘』の旗印で有名な越後の虎;上杉謙信が毘沙門天信仰なのは有名です。
禅による心の鍛錬や毘沙門天信仰などから、武士たちは鎌倉時代から明治維新まで仏教を取り入れ、武士道に大きく影響してきたことがわかります。
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また、達磨大師から続く「禅」の思想哲学こそが、何事も「道」にしてしまう日本人の精神性の原点なのだそうです。空手道も柔道も剣道も、茶道に華道、歌道と、全ての「道」の付く技芸の根底には、達磨大師から脈々と続く東洋思想「禅」が存在しているのだそうです。
大変、勉強になりました、押忍!
次は『武士道の源流を探求する』の第三弾、『儒教』の側面から述べたいと思います。
PS.
今年も残すところあと僅か!
高見空手は極真会館より独立してはや3年、来年から4年目に突入いたします。
ここまで大過なく無事にやってこれましたのも皆さまのお力添えのお蔭です。
誠にありがとうございました。
今年は、いきなりスリランカからの要請で、図らずしも予期せぬ海外展開の第一歩を踏み出しましたが、高見空手は、決して浮かれることなく一歩また一歩と地道に着実な活動を行い、空手道という素晴らしい武道/日本文化を皆様にお伝えしていく所存でございます。
今後ともご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。
来年も皆さまにとって幸多き素晴らしい年でありますように!
高見彰 九拝
- 2016-12-16 Fri | URL | 正拳コラム | Edit | ▲PAGE TOP
武士道の源流を探求する vol.1 ~神道編~
だいぶ時間が空いてしまいましたが、今回の正拳コラムのテーマは『武士道の源流を探求する』です。
と、申しましても殆どが耳学問で、お世話になっている先輩や知人から興味深いことを教えて頂きましたので、皆さまにもご紹介したいと思いました。
また、全3部+おまけ1部の合計4部構成と大作になりますが、中身は私たちの単なる私見で難しくないので、肩の力を抜いて気軽に読んで頂けたら思います。
山岡鉄舟の武士道
幕末の剣・禅・書の達人、山岡鉄舟は「武士道」を次のように述べられました。
『我が邦人に一種微妙の道念あり、神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於いてその著しきを見る。鉄太郎これを名付て武士道と云ふ。』
鉄舟は、「武士道」は武家において「神」「儒」「仏」の思想哲学が融合して独自に発展してきた『道』と述べました。それならば私は、逆に神・儒・仏の3つの側面からアプローチしたら武士道の源流垣間見ることができるのかな?と考え、先輩諸兄に様々おしえて頂いたり一緒に調べたりしました。
武士道の源流の「神」「儒」「仏」の偉人
そして最も『武士道』に影響を与えたと思われる偉人に辿り着きました。
それは
1、聖徳大子(神道)
2、達磨大師(禅宗)
3、孟子(儒教)
の三人です。
この「神」「儒」「仏」を代表する三人の思想哲学を中心に、武門の家で何百年に渡って徐々に融合発達したのが「武士道」と考えました。
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「神」の偉人:聖徳太子
聖徳太子というと「十七条憲法」や「仏教を日本に導入した人」という印象が強いと思います。しかし、聖徳太子の凄いところは、何百年/何千年先の未来を見据えて神道を土壌に「日本の国体」「日本文化」の基礎・骨子を作ったことなのだそうです。
それは、
・豪族が群雄割拠していた日本を天皇中心の中央集権国家にしたこと(天皇制)
・異文化を吸収してオリジナルなものに発展させる日本文化モデルを構築したこと。
の2つです。
一つ目の日本の国体「天皇制」は聖徳太子が基礎固めしました。天皇とは日本民族の長(おさ)で、民族の繁栄を祈って祭礼するお立場(祭祀王)。
そして政治(権力)は、平安時代では摂政関白、鎌倉時代~江戸時代は幕府、明治維新から現代までは憲法による政府が担ってきました。こうした「権威(天皇)」と「権力(為政者)」が分離している日本独自の国体は、聖徳太子が基礎固めしたというから驚きです。
二つ目の「異文化を吸収してオリジナルなものに発展させる日本文化モデル」の代表例が仏教導入です。
例えば「お盆」は仏教行事と誰もが思いますが、実は仏教に先祖崇拝や先祖供養はありません。これは「人は祖に基づき、祖は神に基づく」(ご先祖のご先祖が神さま)という神道の先祖崇拝を、聖徳太子が仏教と融合させて「お盆」という習慣にしたそうです。仏教という異教を受け入れて神仏習合にしてしまう日本神道の寛容性と懐の深さには驚くばかりです。
そして現代に至るまで日本は、聖徳太子の文化モデルによって、いろんな海外の異文化を吸収し続け、オリジナリティーな文化にして発展させて来ました。
今の日本語も「漢字」を吸収していますし、明治維新では和魂洋才で西洋文明の科学技術を吸収し、日本オリジナルに発展させてきました。
また例えば食べ物なら
・イタリアのスパゲティナポリタン、
・インドのカレー、
・中国のラーメン、
・ポルトガルのてんぷら!
…etc
どれも日本オリジナル版が生まれました。
思想哲学、宗教、科学技術、料理(笑)と、異国から伝わってきた文化を吸収発展してオリジナルなものにしてしまうのが日本文化の大きな特徴のひとつ!
その基本パターンというかモデルを作ったのが聖徳太子なのです。
当然、武士道も聖徳太子モデルによって「神」「儒」「仏」の異なる思想が融合発展して生まれたものです。もし聖徳太子がいなかったら日本文化は深みなく味気ないものになり、武士道も生まれなかったかも知れません。
先輩から教えて頂いた話に、改めて聖徳太子の凄さに驚いた次第です!
次は「仏」の側面から武士道を語ってみたいと思います。
おたのしみに!
- 2016-09-15 Thu | URL | 正拳コラム | Edit | ▲PAGE TOP