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釣りは武士道である?!

 前コラムで山岡鉄舟の「武」は、何より剣術が大好きで、辛く厳しい修行も「これを楽しむ者に如かず(孔子)」の境地と述べさせて頂きました。
 そして、わかりやすい卑近な例として「早朝、悪天候の中でも喜々として出かけていく釣りキチ」を挙げたところ、読者の方から、

「 釣りは武士道 」

との、ご指摘を受けました!!

 そこで今回は、しばらく重厚なコラムが続いたので、ちょっと息抜きで「釣りと武士道」のトリビアにしたいと思います。(釣りと武士道の関係を知らず、興味があって調査してみました。)

 まず初めに、大物を狙う釣りキチを「太公望(たいこうぼう)」と呼びます。太公望とは、紀元前11世紀の中国の伝説の大軍師:呂尚(りょしょう)のことです。

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 周の文王は、川釣りをしていた呂尚を先君の太公が探し求めた大賢人と見抜き、軍師として招きました。そして呂尚は「太公が望んだ人物」から「太公望」と呼ばれ、文王と武王の二代に仕えて大活躍します。
 後の時代、小説「項羽と劉邦」で劉邦に仕えた軍師:張良や、三国志で有名な天才軍師:諸葛亮孔明も太公望の足跡を学び、真偽不明ですが兵法書『六韜』『三略』は呂尚の著作という説もあります。

 この呂尚が釣りキチという説、呂尚の釣りは小物の「魚」でなく軍師として仕える大物の「君子」を釣るための作戦の説。そして千変万化する大自然が相手の釣りは、軍略に通じるという理由により、大物を狙う釣りキチのことを大軍師:呂尚に倣い「太公望」と呼ぶようになりました。

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 また日本では、ひろく一般的に武士の嗜みとして釣りが好まれ、特に次の2つが武士道と深く関わっていました。それは『加賀藩の鮎の毛針釣り』と『庄内藩の磯釣り』です。

『加賀藩の鮎の毛針釣り(ドブ釣り)』

 江戸時代の初期、加賀藩は徳川幕府に恭順の意を示すも、百万石を誇る最大勢力の外様大名としてマークされ、幾度となく取り潰されそうになります。こんな状況で家臣に武芸を奨励したら、それこそ謀反を企てているのでは?と、あらぬ疑いを掛けられて大変です。
 そこで加賀藩は、剣術のかわりに鮎釣りを武士の特権(と云うより必須科目)として奨励しました。

有名な鮎の釣り方に「友釣り」があります。

 これは、鮎が縄張りに侵入する他の鮎に体当たり攻撃する習性を利用して、掛け針を仕込んだ「おとり鮎」を泳がせて引っ掛けて釣る方法です。

 しかし、この釣り方は
「おとりを使うのは武士道にあるまじき卑怯な行為」として採用されませんでした。

「武士にとりて卑劣な行為、曲がりたる振舞ほど忌むべきものはない」とは、新渡戸稲造「武士道」にある義の一節ですが、それより前の江戸時代初期、釣りにまで『卑怯・卑劣を憎む心』がすでに存在していたことに私は驚きました。

 そこで新たに開発しされた技が、河川の深部に毛針を沈めるドブ釣りです。鮎の毛針のドブ釣りは加賀藩がルーツで、「加賀竿」や「加賀毛針」という伝統工芸も発展しました。

 そして加賀藩の武士たちは、剣のかわりに釣竿を持って足腰の鍛錬やバランス能力、集中力などを養い、鮎のドブ釣りを隠れた武士の鍛錬方法としました。

・加賀竿
http://goo.gl/3GhnPH
・加賀毛針
http://goo.gl/1Haoe7

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『庄内藩の磯釣り』

 庄内藩(今の山形県鶴岡市)では1707年、すでに藩主が釣りを楽しんでいた記録があり、第八代藩主の酒井忠器(ただかた)は、江戸時代の平和な世の中で武芸が衰退していくことを憂えて磯釣りを奨励しました。かく言う藩主本人とその子の忠発(ただあき)の親子二代も釣りキチで、世界初の「魚拓」は、下の忠発公が江戸錦糸堀で釣ったとされる39センチの鮒です。なんと魚拓は、庄内藩がルーツでした!

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 そして庄内藩の武士たちは、魚を敵の首に見立てて「釣り」を「勝負」と呼び、大小の刀とともに7メートル近い庄内竿と釣り道具を持って、クロダイやタラなど大物を狙って深夜23時発で城下町から山を越えて20キロ以上先の日本海の磯に出かけて行きました。この重たい荷物を持った深夜の山越えの行軍は、大変な足腰の鍛錬になり、肝も練られたそうです。

 また、大物が釣れたら魚拓を取って藩主に報告して褒美をもらい、逆に釣り竿や刀を海に落としたり、誤って海に落ちて死んだりしたら家禄を減らされることもあったとか。

 時は流れて明治維新。

 庄内藩は、会津藩とともに薩長に逆らい官軍と戦います。最新の銃器を装備した薩長に対し、庄内藩士たちは昔ながらの武器で応戦するのですが…。日頃の磯釣りで鍛えた武士たちの山間部や夜間のゲリラ戦術は連戦連勝で、大いに官軍を苦しめました。

 これはもう「薩長軍vs庄内釣りキチ軍」の戦いです。

 後に仙台藩はじめ奥州諸藩の説得で庄内藩も明治政府に恭順の意を示すのですが、あまりに見事な敵の戦いぶりに感動した西郷隆盛の計らいで、逆賊であるはずの庄内藩は殆んどお咎め無しとなりました。まさに釣りで鍛えた尚武の精神のなせる業、庄内藩の釣りキチ武士道ここにありです。

 以下にも庄内藩の磯釣りの情報がありました。伝説の釣り竿「榧風呂」のお話など、釣りキチにとっては大変興味深いのではないでしょうか。

・庄内藩の釣道
http://goo.gl/B4OtkO
・伝説の釣り竿「榧風呂」の致道博物館
http://goo.gl/dI7aXT

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 私は、小さい頃から空手に専念で釣りはやりませんでしたが、正拳コラムで私の拙い文書を監修/校正してくださる静岡出身のS先輩は、人気漫画「釣りキチ三平」世代で、海岸や磯、港、川へと出陣したそうです。

その先輩の話で、クロダイは引きが強くて警戒心もあり、今のような竿や糸がなかった江戸時代、竿を折られたり糸を切られたりして釣り上げるのは大変難しく至難の業だったとか。

 こうして調べてみると、足腰やバランス感覚の鍛錬、技や道具の創意工夫、作戦、集中力に忍耐力の涵養など、釣りを武芸の一環として奨励してきた理由がわかります。

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 ところで高見空手の宇和島道場には、イカ釣りで「愛媛の豪腕エギンガー」と称され、まさに「釣りと武士道」を地で行く全国区の釣りキチ:久保田正輝師範代(釣りネーム:くぼっち)がいらっしゃいます。

 以前、久保田師範代は、某大手釣り具メーカーからCM出演オファーを受けました。これは残念ながら諸般の事情により実現しませんでしたが、頻繁に釣り雑誌の取材を受けたり、昨年はテレビの釣り番組で照英さんと共演しました。

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★☆★ くぼっちの質実剛健 ★☆★
http://ameblo.jp/mas128/

 久保田師範代に釣りの奥義を教授して欲しい方は、まずは高見空手に入門して「尚武の精神」を涵養して頂けたらと思います/

 最後に私は、空手道とは道場の稽古のみならず、日々の道場運営/大会の企画運営からコラム執筆、趣味の読書に至るまで、何でも空手道の修行と思えば、本当に空手道の修行になると考えております。

 この仕事や勉強も、何でも空手道の修行になるという考え方は、空手の道(みち)の「道」たる所以です。「道を修めるとは何か」考えて頂ければ、人生すべてが修行であること、「生活修行」の意味をご理解して頂けるのではないでしょうか。

 しかし今回の調査で、ここまで直接的に「釣り」と「武士道」が繋がっているとは予想できず、久保田師範代の釣りキチもなるほどと思いました!

 それでは次回は、山岡鉄州コラムのスピンアウトとして徳川慶喜の「武」をご紹介したいと思います。

高見 彰

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