愛媛県/松山市の空手道場|一般・女子・壮年・こどもカラテ教室/護身術・武器術 見学/体験可 ★━━・‥…

山岡鉄舟が教示する武士道/武道感 vol.3

※旧タイトル:「あんぱん」と「味付け海苔」vol.3

 前コラムでご案内した小説「命もいらず名もいらず」を読まれた方も多いかと思います。それで私が追加で紹介を受けた鉄舟の小説も紹介させて頂きます。

津本陽 著 『春風無刀流』 文春文庫

ファイル 68-1.jpg

 この本は、残念ながら廃版でアマゾンで購入しようと思ったら、古本しかありませんでした。内容は「命もいらず名もいらず」と同じく淡々とエピソード(事実)を並べた構成で重複しない部分が多く、津本陽だけあって読みごたえがあります。ぜひ『春風無刀流』も合わせてお読みください。

※余談ですが私がアメリカ留学中、大山泰彦師範に渡され初めて読んだ津本陽の本は『剣のいのち』でした。

---

 皆さまは、山岡鉄舟を知ることで様々な「武」を受け取られ、日々の稽古や武道に対する取り組みの糧になったかと思います。どのような「武」を受け取ったのか、人それぞれ違いがあり、個性があってよいと思います。

 それでは私が受け取った鉄舟の「武」を述べさせて頂きます。

 鉄舟は、明治維新で廃藩置県や廃刀令によって武士の世の中が終焉しても剣を置かず、ひたすら厳しい修行を続けました。この難行苦行を楽しむほど剣術を愛して止まない境地が、山岡鉄舟の「武」の神髄ではと考えました。

論語に次の教えがあります。

子曰く、
これを知る者はこれを好む者に如かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

※「楽しむ」とは享楽的なエンジョイでなく「道」を学ぶ喜びと楽しみです。

 また、鉄舟は「武」を極めるために徹底した禅修行もしました。

星定和尚に教えを乞うため週一ペースで片道120キロの龍沢寺に参禅し続け、
洪川和尚に境地を語って「よくしゃべる無心じゃわい」とキセルで頭を叩かれ、
滴水和尚からバカモノと叱られて「殴る蹴る」の指導を受け…

明治天皇の教育係として侍従するまでになった、四十歳近い自分をボコボコになるまで厳しく指導してくれる師に感謝し、喜々として修行に邁進します。鉄舟は、剣術を誰よりも愛し、修行を誰よりも楽しんでいたのです。

 この鉄舟の剣術修行に向かう姿勢を知るにつけ、みなさん、同じような武の巨峰を思い浮かべませんか?

そう、空手バカ一代の大山倍達総裁です。

 若き日の山籠もりに命がけの武者修行と、壮絶な空手の修行があるのですが、その奥には難行苦行そのものまで楽しむ程、自らをバカと称するほど空手を愛して止まない境地があったのは言うまでもありません。

真夜中、鉄舟が、いきなり起きて横で寝ている妻を起して木刀を構えさせるところなど、
深夜いきなりガバッと起きて「正拳」の握り方を試す大山総裁の姿に重なってしまいます。

仏教で「三昧の境地」というのがあります。
「楽しくて無我夢中となり我を忘れて集中している境地」です。

鉄舟も総裁も「三昧の境地」で武道修行に取り組んだのではと私は思うのです。

もっと、わかりやすく卑近な例でいえば「釣りキチ」です。

釣りキチにとっては、徹夜仕事明けの早朝出発、暑さ寒さ、悪天候の中での釣りも楽しくて仕方ありません。周りから見たら、何でそこまで難行苦行して、魚釣りするのか理解不能です。身近に、このような釣りキチはいませんか?

『これを知る者はこれを好む者に如かず。
 これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。』

 これこそ武道のみならず、あらゆるお稽古ごと、ものごとを習得し極める上で最も大切な姿勢であり、角度を変えて言えば、勉強でも仕事でも、嫌なことも辛いことも、心の持ち方ひとつで天国にも地獄にもなるということです。

 私自身、このコラムで様々な「武」を論じてますが、その根本には「武道が大好き、空手道が大好き」があり、これは恋愛と同じく理論理屈じゃありません。辛かろうが苦しかろうが好きことは好きで、楽しいことは楽しいのです。

 私は、辛い稽古や、如何に相手を倒すのかを考え技を創意工夫することが何より楽しく、また空手道の修行を通じて自分を高めていくことに喜びを感じています。高見空手の先生方も、皆、空手道が大好きで刻苦精進していらっしゃいます。

 今治道場の南條師範が5月22日のFacebookで
「第一回 高見空手 愛媛県空手道選手権大会」に触れ、

「勝つのが目標、負けても しがみついても前に倒れる、
 意味のある明日に繋がる組手を目指たい。
 わたくしの大好きだった空手道の始まりです。」

と、述べられていらっしゃいました。

ファイル 68-3.jpg
※南條師範の氷柱割り写真

※今治道場Facebook
http://jump.cx/ehj0G

 この南條師範の「わたくしの大好きだった空手道」の言葉に込められた「想い」と「境地」こそ武道の修得にとって大切と思います。

理論・理屈じゃない、
何より剣術が大好きで命がけの難行苦行すら楽しくて仕方ない程の境地を以て、
山岡鉄舟の「武」と受け取りましたが、皆さまは如何でしょうか?

---おまけコラム---

 六十回余り戦って全てに勝利した宮本武蔵と違い、一度も実戦で敵を斬ったことのない山岡鉄舟は本当に強かったのか?

東海道の大親分、清水の次郎長との間に、こんな撃剣問答があります。

ファイル 68-2.jpg

「先生、撃剣なんて役に立たないですね。この野郎!って、アタシが睨んだら、たいていのお侍は逃げ出してしまいます」
「そうであろう。では、この刀で斬り掛かってきなさい。私は料理で使う‘すり棒’で相手しよう。僅かな傷でもお前の勝ちだ!」

 幾度となく喧嘩をしてきた百戦錬磨の次郎長も、こここまで云われてはと負けん気がもたげ、丸腰で座っている鉄舟に本気で斬りかかろうしますが、何故か足がすくみ心が萎えて体が動きません。

蛇に睨まれたカエル状態です。

「こいつはいけねぇ。こう竦んでしまうのはどういうわけなんでしょ?」
「それは、お前が、この野郎って相手を竦ませるのと同じだよ。目から光が出るんだ!」
「アタシも撃剣を修行したら、その光とやらは、もっと出るようになりますか?」
「ああ、なるとも!目からピカーッと光が出なければ、偉くなれねえよ」

こう言うと、鉄舟は嬉しそうに
「眼光輝を放たざれば大丈夫にあらず」 と書いて次郎長に渡しました。

 また、三島の龍沢寺への参禅の道中、箱根の山道で人足たちに金品を要求された時、
「わしに追いついたら望み通り何でも進上しよう」と言って、戦わずに疾風の如く走り去ったそうです。

 山岡鉄舟は、無敵の強さを求めて誰よりも激しい修行をする一方、相手を傷つけてしまう戦いを避け、また、圧倒的に強すぎて(目から光ピカ〜で)、誰も戦おうとはしなかったと云うのが事実のようです。

 最強無敵の強さと、決して人を傷つけない優しさを併せ持つ武人が鉄舟なのです。

 他にも鉄舟は、フードファイター?よろしく日本酒7升、饅頭108個、ゆで卵97個という大食い記録を残してます。しかも、ゆで卵は、100個越えしようとして気持ち悪くなり吐いてしまったとか、笑!

 また、鉄舟がいなかったら「あんぱん」も「味付け海苔」も存在しなかったかもしれません。

 鉄舟は、かならずしも厳格な武道家ではなく、面白くて大変魅力的な人物だったようです。

いや、もう凄いというか何というか、
私たちの想像を絶する規格外の「武の巨匠」でした!!!
 
========「剣禅話」覚え書き(上級編です)========

「剣禅話」の第2部「修養論」(武士道/ 修心要領/ 心胆錬磨之事)より、自分の修行のための覚え書きも兼ねて抜粋し、簡単な所感を加えてみました。原文なので難しいかもしれませんが興味のある方はどうぞ!

---

『わが邦人に、一種微妙の通念あり。神道にあらず、儒道にあらず、仏道にもあらず、神。儒。仏。三道融和の通念にして、中古以降専ら武門に於て、其著しきを見る。鉄太郎之を名付て武士道と云ふ。然れども未だ曾て文書に認め、經に綴って伝ふるものあるを見ず。』

 山岡鉄舟による「武士道」の定義です。明治維新前の江戸時代までは、ことさら「武士道」という言葉は存在せず、ごく普通の武士の考え方でした。
 それを山岡鉄舟が初めて「武士道」という言葉を使い、数十年後、この影響を受けた新渡戸稲造や内村鑑三が、西洋文化に対する日本文化として「武士道」を取り上げたのが始まりです。

 私は、新渡戸稲造の「武士道」が大好きで繰り返し読んでましたが、山岡鉄舟を紹介して下さった先輩に
「新渡戸稲造は、キリスト教信者で優れた教育者であり学者なんだけど武道家ではないんだよね」と、教えてもらいました。

---

『善悪の理屈を知りたるのみにては武士道にあらず、善なりと知りたる上は、直に実行にあらわしくるをもって、武士道と申すなり。そしてまた武士道は、本来心を元として、形に発動するものなれば、形は時に従い、事に応じて変化変転極まりなきものなり。』

 武士道は、理論/理屈の知識で終わらず、良心に従い「善」を実行することと述べてます。これは陽明学の「知行合一」からきていると思いました。
 また、「敵の攻撃」から「日常生活での様々な課題や困難」に至るまで、あらゆる状況に対して臨機応変・自由自在に対処できるのが武士道とも説いてます。

---

『世人剣法を修むるの要は、恐らくは敵を切らんが為めの思ひなるべし。余の剣法を修むるや然らず。余は、此法の呼吸に於て神妙の理に悟入せんと欲するにあり。』

『余の剣法を学ぶは、ひとえに心胆錬磨の術を積み、心を明らめてもって、己また天地と同根一体の理はたして釈然たるの境に到達せんとするにあるのみ。…』

 これは相手を倒す単なる「武術」から、人として高きに至る「武道」へと昇華した考え方で、現代の「武道」の在り方の雛形となっています。

---

『余人或は余を見る事、猛虎の如しと。然れども余、未だ嘗つて殺生を試みたる事なきのみならず、一点他人に加害したる事も亦あらざるなり。否、猶修身斯道(士道)に違はざるを誓ふ。是れ、余が剣法修行の自覚となす。』

 山岡鉄舟は、激動の時代を生き抜きながら、生涯、一度たりとも人を斬ったり傷付けたりしませんでした。

---

『いかなる万変に合うも、いささかたりとも動かず、その難を堪え忍び、綽々として、その境遇に座を占め込んで、その大事を処理するというに至っては、その苦心惨憺の状は、とても死ぬくらいな手軽ではできざるはずなり。しかるを、その苦しさに死してその難を免るるなどは、まずまず錬胆の実薄く、忠孝仁義の誠に乏しき、畢竟愚鈍の沙汰なりと心得べし』

 辛く厳しい状況に陥った時、微動だにせず問題解決に取り組むのが武士道であり、辛さ苦しさから死んで逃げるのは、日頃の鍛錬がなっておらず、忠孝仁義の誠が乏しく愚かな行為である。
 死ぬより辛く厳しい「生きて問題解決する道」を選ぶのが武士道であると「喝!」を入れます。

---

『無刀とは何ぞや。心の外に刀なきなり。敵と相対する時、刀に依らずして心を打つ。是を無刀という』

⇒『 心を以て心を打つ 』

 鉄舟が晩年に興した無刀流の極意です。これは西郷隆盛と折衝して江戸を戦禍から守り江戸城無血開城させた山岡鉄舟の「武」ではないでしょうか。

 また、富士山を見て大悟した境地の歌

『 晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は かはらざりけり 』

とともに有名な歌

『 死んだとて 損得もなし 馬鹿野郎 』

があります。

 もしかして、この歌は前述の「いかなる万変に合うも…」とともに、明治政府のため不満分子とともに消えて行くことを決心した西郷隆盛への悲しみの吐露では、と、推測したのですが、ご存知の方がいらっしゃいましたら教えてください。

---

 山岡鉄舟は、学者や哲学家、もの書きでなく、人を集めて講演したことも、門下生を一堂に集めて訓示を述べたこともありません。残っているのは、鉄舟が書き残した短い文章と、門下生はじめ様々な人々が口伝し、また書き残した資料のみです。この剣禅話の僅かな資料だけでも、鉄舟の「武」の凄さが伺えます。

▲ PAGE TOP