今回の正拳コラムは、山岡鉄舟コラムのスピンアウトとして最後の将軍:徳川慶喜について述べさせて頂きます。有名な方なのでご存知とは思いますが、改めて慶喜のプロフィールを紹介します。
1837年、徳川慶喜は、徳川御三家の一つの水戸家の斉昭の七男として生まれました。水戸家といえば、TV番組「水戸黄門」でおなじみ水戸光圀公が有名ですが、この黄門さまの教育方針で、代々、水戸家の子供たちは、江戸育ちで軟弱にならないよう水戸で厳しく育てられました。
ところで真偽のわからない俗説として、
水戸家は徳川御三家の一つですが、当主は征夷大将軍になれない決まりのある一方、唯一、将軍に諌言・苦言の許された存在のため「天下の副将軍」と呼ばれたそうです。
また水戸家には「もし徳川家と朝廷で争いがあったら帝を奉ぜよ」という家訓が存在し、これが明治維新へと繋がっていきます。これは未来を予見した徳川家康によるとの伝説があり、明治維新の志士たちの尊皇攘夷の思想が家訓による黄門さまの水戸学が発祥なのですから、日本の歴史は本当に奥が深いです。
話を戻して、水戸で厳しく育てられて学問・武術に秀でた慶喜は、
「権現様の再来」
「徳川の流れを清ましめん御仁」
と、評されるくらい優秀で、世継ぎがいなかった同じ御三家の一ツ橋家に請われて養子となり将軍への道が開けます。しかし、その人生は明治維新という大きな時代の荒波に飲まれていきました。
安政5年、開国を迫るアメリカに井伊直弼は、勅許を得ずに日米修好通商条約に調印しました。これに慶喜は怒り、江戸城に乗り込んで井伊直弼を詰問するのですが、逆に隠居謹慎処分にされてしまいます。安政の大獄は吉田松陰の処刑が有名ですが、じつは慶喜も一緒に処分されていました。
その後、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたのを機に、処分が解かれた慶喜は幕府の立て直しに取り組み、度重なる要請で慶応2年、征夷大将軍になりました。その実力は、長州藩の桂小五郎をして
「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ。」と、警戒されます。
しかし、無情にも時代は慶喜の思惑と大きく違う方向に向かい、坂本龍馬によって薩長連合が締結され、武力倒幕の動きが起こります。
戦うべきなのか…
慶喜は苦しんだ末、日本を欧米列強から守るために、将軍としての誇りやプライド、徳川家と幕府そのものを捨てて、未来に及ぶ汚名覚悟で「大政奉還」を決断するのです。
この決断を知った大政奉還の発案者である坂本龍馬は、感涙して言いました。
「よくも断じ給えるかな。よくも断じ給えるかな…。予、誓ってこの公のために一命を捨てん。」
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老子に次の言葉があります。
「人を知る者は智、自ら知る者は明なり。
人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。
足るを知る者は富み、強めて行なう者は志有り。
その所を失わざる者は久し。死して而も亡びざる者は寿し。」
また、徳川家康が子孫に残した家訓に
「勝つ事ばかり知りて 負くる事知らざれば害その身にいたる」
があります。
この
「自ら勝つ者は強し」
「負けて知る武士道」
を実践し、自ら幕府に引導を渡して内戦を回避した慶喜は、家康が最も理想とする子孫像だったのかも知れません。
歴史は、往々にして勝者が都合よく書き換えて敗者の評価を貶め、後世の学者や歴史家は、自分の思想や机上の理論で歪めて評価しがちです。
しかし、我々は武道家です。先人の生き様や足跡を訪ねて素直に人間性を見つめ、もし自分だったら…と想像しながら、惻隠の情でその想いや境地をおもんばかり、武道修行の糧としなければいけません。
みなさまは、大政奉還を決断した時の徳川慶喜の想いや境地をどうおもんばかりましたか?
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話は変わって幕末、徳川幕府は衰退していたのか?弱かったのか?という疑問があります。
実は、新生・明治政府を支えた官史(公務員)約5000人のうち、約1700人が元・幕臣で、明治政府による優秀な人材ヘッドハンティングによる再就職でした。
このように徳川幕府は、優秀な人材の宝庫で決して腰抜けではなく、慶喜が薩長との戦いを決断していたら、どちらが勝っていたかわかりません。唯一、言えるのは内戦になったら日本は欧米の植民地となり、今の私達の豊かな生活はなかったかもしれないということです。
また明治4年、明治政府は、元大名の知藩事を集めて「廃藩置県」を言い渡しました。これにより、大名とその家臣の武士たちは、失業して収入を失ってしまいます。ところが失業したサムライたちは、明治政府の予想に反して殆んど反乱や抵抗は起こりませんでした。
ラストサムライたちは、生まれ変わっていく日本のために「これでよし」と、やせ我慢したのです。これぞ「武士は食わねど高楊枝!」の心意気であり、世界の歴史を見ても同様の状態に追い込まれて反乱を起こさなかった軍隊は存在しません。
でも、学者によって明治維新は決して無血革命でなく、戊辰戦争や西南戦争があったと挙げる者もおります。
-- 戊辰戦争と西南戦争 --
戊辰戦争は、前述コラムの釣りキチ庄内藩など、時代の激流に巻き込まれた感があり、会津藩は天皇への恭順を表明しつつ薩長政府を認めず武装解除しなかった歴史的な立場もありました。
また、戊辰戦争で思い出されるのが小泉元総理大臣で話題となった長岡藩の小林虎三郎の「米百俵の精神」です。
改めて説明すれば、戊辰戦争に負けて財政破綻していた長岡藩に、支藩の三根山藩から米百俵が届きます。小林虎三郎は「人材育成こそが敗戦国の復興にとって肝要である」と、これを元手に学校創設しようとしたところ、困窮する藩士たちがお米を配るよう詰め寄りました。
これに小林虎三郎は
「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と引き下がらず、初代藩主:牧野忠成の残した家訓の掛け軸を藩士たちに見せました。
「 常 在 戦 場 」
家訓の前に藩士たちは一斉に正座して頭を下げ、後に設立された学校は多くの人材を輩出。後の連合艦隊司令長官、山本五十六も出身者です。このように戊辰戦争の長岡藩にも、小林虎三郎と藩士たちの『公』のために耐え忍ぶ武士道があったのです。
▼参考「米百俵で未来を創った男」
http://torasa.fukikou.net/
また、西郷どんの西南戦争は、新生日本のために自ら不満分子とともに散って消えて行こうとした決断によるものです。結果、西郷どんは、逆賊となって靖国神社に祭られませんでした。心中を痛い程に理解していた山岡鉄舟は、明治天皇の許しを得て、逆賊と云えど日本のために明治維新で亡くなった武士たちを全生庵で供養しました。
徳川慶喜の「大政奉還」の英断、
武士たちの「明治維新」の甘受、
ここに「人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し」という武士たちの誇りがあり、これこそ『私』を越えて『和』をもって『公』に尽くす武士道精神の最たる事例ではないでしょうか。世界中の国々に奇跡と言わしめた「明治維新」には、全ての武士たちが新生日本のために滅私した歴史、まさに「押忍の精神」があったのです。
時代は違えど、高見空手の『和』をもって『公』に尽くす精神も此処にあります。
空手道という武道を学んでいる私たちは、敵を倒しライバルに勝利する「力」ばかりを求めず、
惻隠の情で優しくなれる強さ、
煩悩という「心中の賊」を破る強さ、
過ちあれば頭を下げる強さ、
そして公に尽くすために
徳川慶喜の苦渋の道を選ぶ強さ、
明治維新を甘受した武士たちの強さ、
この自分自身に打ち勝つ『武』の強さを涵養しなければなりません。
徳川慶喜とラストサムライ達の『武』 ~ 自ら勝つものは強し ~
高見 彰 押忍!
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次回は、山岡鉄舟コラムのスピンアウト第二弾!
負けて知る武士道をテーマに、アンパンマンの『武』 をご紹介します。