武士道の源流を探求する vol.3 〜儒教編〜
新年 あけましておめでとうございます
今年も頑張って『勉強』して皆さまに喜んで頂ける正拳コラムを心掛けますので
ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます
高見空手 道場訓
四に曰く、
是非の心は智の端なり 勉励修養を宗とせよ
日本空手道 高見空手
最高範士 高見彰 押忍!
儒教の伝来
さて、新年最初のコラムは昨年からの続き、『武士道の源流を探求する 第三弾 儒教』です。
前コラム通り、儒教は仏教と共に遣隋使(600~618年)/遣唐使(630~894年)によって日本にもたらされましたが、仏教よりも早く伝わった可能性があるそうです。
当時、大和朝廷(天皇)は、唐王朝から冊封を受けず(中国王朝の臣下/属国の関係)、独立国として対等に交易・外交い、また大宝律令などの法律も制定しました。(冊封を受けた属国は、中国の許可なく自分たちで法律を定める権利がありません。)
また逸話として、遣隋使・遣唐使は、中国皇帝から下賜された数々の宝物を現地で全て売り払ってお金に替え、膨大な書物を買い込んで帰国していったというエピソードが旧唐書に書かれているそうです。
このお話を聞いた時、昔の日本が財宝よりも知識/学問を重視した姿勢に感動を覚えました。
こうして日本に儒教が伝わり、若き日の空海も仏者か儒家か、どちらの道に生きるか思案したことから、平安時代すでに儒教が日本に浸透していたことが伺えます。
そして平安後期から武士が出現しますが、儒教は主に僧侶が修めていたことから『禅』を学ぶ武士たちは、当然、禅僧から『儒教』も学ぶことになります。
また、私が面白いと思ったのが、武士たちは儒教のアンチテーゼである老荘思想(老子/荘子)も学び、矛盾なく吸収していったことです。武士たちが、禅、儒教、老荘思想と相反するもの吸収して、『武士道』という新しい思想哲学を醸造していくベースに神道(聖徳太子の文化モデル)があることは前々述コラムでお話した通りです。
その後、南北朝時代には大楠公;楠木正成が『禅』とともに『宋学(宋の時代に形成された朱子学を中心とする新しい儒教)』を修め、『七生報国』『大義』という生き様を示して後の武士の価値観/人生観に大きな影響を与えます。
徳川家康の施策と陽明学
思想哲学としての武士道が形成されたのは、江戸時代初期です。天下を統一した徳川家康は、戦いを本分とする武士たちをコントロールのために国学として儒教を取り入れます。これは家康が、儒教の持つモラル・道徳性によって荒ぶる戦国武士を大人しくさせようという試みでした。
このため家康は、理論理屈が中心の『儒教:朱子学』を推奨しました。それは、朱子学と反対に実践を説く知行合一の『陽明学』を学んで暴れられては大変だからです。
しかし、武士たちは「陽明学」を好んで学び、後に家康の危惧通り、農民の苦境を見かねて反乱を起こした大塩平八郎や、明治維新における吉田松陰など陽明学派が暴れることになります。
武士道と東京大学
江戸幕府は、神田湯島に江戸幕府直轄の「学問所」を設立しました。この学問所は『昌平黌( しょうへいこう)』と称され、ここで儒教をベースとした思想哲学/道徳としての『武士道』が形成されていきます。(当時は、ことさら武士道という言葉はなく、武士の心得のようなものだったようです)
その後、明治維新を機に『昌平黌』は解体されて、現在の東京大学/筑波大学/御茶の水女子大学の前身となっていきます。まさか武士道が東京大学に繋がっていたとは私も知らず、この話を聞いた時に本当には驚きました。
もしかしたら『文武両道』が尊ばれるのは、学問所『昌平黌』の思想も影響しているかも知れないですね。
武士道の源流を探る
以上が私が先生方や先輩に教えて頂き、また一緒に調べた武士道の源流です。
山岡鉄舟の御言葉
『わが邦人に、一種微妙の通念あり。神道にあらず、儒道にあらず、仏道にもあらず、神。儒。仏。三道融和の通念にして、中古以降専ら武門に於て、其著しきを見る。鉄太郎之を名付て武士道と云ふ。』
今回の正拳コラム「武士道の源流を探る」3部作は、山岡鉄舟の説により神・仏・儒の見地から歴史を辿りましたが、これによって改めて武士道が鉄舟の言う通り「神。儒。仏。三道融和の通念」であることをご認識して頂けたかと思います。
しかし東京大学とはビックリです!勉強が苦手だった私が言うことは「おまいう」ですが(笑)、高見空手の子供たちには『文武両道』を心掛けて、空手に勉強にと精進努力して頂けたら嬉しいです!
道場生の子供たちへ!
新春に寄せて
『文武両道、勉励修養を宗とせよ!』
日本空手道 高見空手
最高範士 高見彰
次回は、『武士道の源流を探る~番外編:大和撫子七変化~』です。
お楽しみに!
- 2017-01-01 Sun | URL | 正拳コラム | Edit | ▲PAGE TOP